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2020年5月24日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「新しい人」

➡ 2020年5月24日 礼拝プログラム(クリックしてください)

聖書―エフェソの信徒への手紙4章17~24節

(はじめに)
 私たちの教会では3月29日から、教会の会堂に一緒に集まっての礼拝をお休みして、それぞれのご家庭での礼拝を行なっていただくようにしています。そのために私は週の半ばに説教の原稿を用意し、それを録音して、音声の配信をホームページ委員会の方にお願いしています。だいぶ前の話になりますが、以前、牧師をしていました北海道の釧路にいた時、道外からお客さんを迎えますと、北海道の東部、道東を巡るドライブをして名所を案内しました。阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖など、大変美しい景色が見られますが、その途中、弟子屈町というところがありました。そこに西洋の古い家具などが展示されている資料館がありました。館内に入りましたら、ヨーロッパの古い時代の教会の講壇がありました。講壇は建物の中二階にあって、おそらく会衆の方へ声が良く聞こえるようにと考えて作られたのだと思います。説教者はそこから大きな声でみ言葉を語っていたのでしょう。私はその講壇を眺めて、これに比べて、今の時代は何と恵まれていることだろうか。マイクなど、音響設備があって大声を張り上げて語らなくても、十分、人々に声が届く。そんなことを思いました。今回、毎週、説教を録音する度に、会堂に集まることができないような事態にあって、インターネットによって、み言葉を届けることができるのは何と恵まれていることだろうか。そういう感動を持ちながら準備をしています。もちろん、私たち教会が語るもの、福音そのものは変わることはありませんが、語り、伝えるための方法であるとか、道具、ツール、それは時代と共に変わります。その時代、その時代に適した方法、ツールを用いて、み言葉を語っていく、伝えていくことに励んでいきたいと思います。

 (聖書から)
   今朝お読みしました聖書はエフェソの信徒への手紙4章17節からです。この箇所の最初のところでパウロは「そこで、わたしは主によって強く勧めます」(17節)と言っています。強く勧める、という言葉を聞きますと、パウロが本当に聞いてほしい、と言っているように思えます。そして、このような言葉が続きます。「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(17~19節)。

 パウロがこの手紙を書き送ったエフェソの教会の人たち、その多くはユダヤ人ではない人たち、ユダヤ人からは異邦人と呼ばれる人たちでした。ここでパウロが異邦人と同じように歩んではならない、と言っているのは、神さまを知らない人のように歩んではならない、ということです。なぜ、このようなことを言っているのかというと、エフェソの教会の人たちが神さまを知らなかった時のことを思い出させているのです。

 イエス・キリストを信じる歩み、信仰生活において、注意しなければならないこと、それはいろいろとありますが、今日の箇所から教えられることは、「慣れ」ということです。神さまの恵みに慣れてしまう。それが当たり前のことのように思ってしまう。そうするうちに、神さまの恵みに感謝することもなくなる、喜びもなくなる・・・。そのうちに神さまの恵みなど与えられていないかのように思ってしまう、忘れてしまう。19節には「無感覚になって」とありました。慣れすぎて、当たり前のことのように考えて、恵みに対して無感覚になってしまう。そういうエフェソの教会の人たちに神さまの恵みを思い起こすように語っているのです。

 そこでパウロはこのように言います。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」(20、21節)。ここに聞いた、教えられた、学んだ、という言葉が出てきます。何を聞いてきたのでしょう、教えられてきたのでしょう、学んできたのでしょう。イエス・キリストです。あなたがたはキリストについて聞いてきた、教えられてきた、学んできた。ところが今はそこから離れてしまってはいないだろうか?キリストを信じる以前に戻ってしまってはいないだろうか?そのように尋ねているのです。

 私は妻と信仰生活について話すとき、よく話題に出るのが信仰生活は基本が大事という話です。妻は武道を習っていましたので、基本トレーニングなど、欠かさず、入念に行なわないと上達できないし、怪我をしてしまうということを言います。信仰生活もそれと似たところがあると思います。基本がしっかりしないと、信仰生活も続かなくなってしまう。あるいは間違った方向に向かってしまう。私たちにとって基本とは、お読みしましたようにキリストに聞くこと、学ぶこと、教えられることです。

 信仰生活を続けていく、もう一つ大事なことが次の言葉で言われています。22節に「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」とあります。「脱ぎ捨て」ということです。今日の聖書箇所について、新共同訳聖書では「古い生き方を捨てる」となっていました。古い人を脱ぎ捨てるというのは、古い生き方、神さまを知らないで、自分の思いのままに生きていたその生き方を捨てるということです。

 これに対して、続く23節からは「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とあります。古い人を脱ぎ捨てる。そして、新しい人を身に着ける、というのです。私たちは古い服、汚れた服は洗濯するために脱いで、まだ汚れていないきれいな服に着替えます。毎日の生活はその繰り返しです。汚れたままの古い服を着たまま、その上に汚れていないきれいな新しい服を着るようなことはしないと思います。信仰生活も同じです。神さまを知らない、以前の生き方のままで、それに加えて、新しい生き方をするということはできません。信仰生活は日々、古い人を脱ぎ捨てること、そして、新しい人を着ることです。

 ところで23節の「心の底から新たにされて」とありましたが、この言葉に注目してみましょう。「心の底」、直訳的に訳すならば、「心の霊」(聖書協会共同訳)です。ただ、「心の霊」というと、私たちの心にある神さまが与えてくださった聖霊と考えるかもしれませんが、ここで言われているのは、私たちの心の霊のことです。私たちの心の霊、それについて、新共同訳聖書で「心の底」と訳されたように、私たちの心の底、心の奥深いところです。そこにおいて、私たちは神さまと交わりを持つのです。私たちが聖書を通して、神さまのことを考え、神さまとお話しをする。神さまにお祈りをする。そのような生活から、神さまのことが分かってくる、神さまのことを知るようになるのです。

 24節には「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」とありました。説教題も「新しい人」と付けましたが、この「新しい人」とは誰のことでしょうか?「新しい人」、それはイエス・キリストのことであると言う人がいます。その理解も良いと思います。ローマの信徒への手紙13章14節には「主イエス・キリストを身にまといなさい」。つまり、イエス・キリストを着なさい、とあります。さらに考えていきますと、イエス・キリストを着ることによって、イエス・キリストを受け入れ、この方に従っていくことによって私たちは日々、新しくされるのです。新しい人になっていくのです。これについてはコリントの信徒への手紙二5章17節に「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。

   あなたがたは神さまの恵み、神さまがあなたがたにしてくださった恵みを思い出しなさい。古い人、古い生活から、新しい人、新しい人生を生きる者と造りかえてくださったことを思い出しなさい。パウロはエフェソの教会の人たちに語るのです。イエスさまが私たちを古い人から新しい人へと造りかえてくださるためになさったこと、それは何でしょうか?今日の箇所で「古い」と言っているのは、時間的な古さということではないことはお分かりだと思います。古い人、古い生き方というのは、罪に支配された人、罪に支配された生き方ということです。神さまを知らず、神さまを離れて、自分の思いのまま、自己中心に生きる、それが罪です。その罪から私たちを救うために神さまのみ子であるイエス・キリストが十字架にかかってくださいました。ですから、神さまの恵みというのは、神さまのみ子イエスさまが私たちを救うためにご自分の命をささげてくださったという神さまの愛であるということを私たちは忘れないでいたいと思います。そして、この愛に応えて生きる、それが信仰生活なのです。

(むすび)
    何年か前に韓国のキリスト教会でよく歌われた「君は愛されるため生まれた」という歌があります。その歌詞の中に「君は愛されるため生まれた 今もその愛受けている」とあります。今日の聖書の中に「神にかたどって造られた新しい人」とありましたが、それは、私たち人間は「神さまに愛されている存在として造られた」ということであり、また「神さまを愛し、人を愛する存在として造られた」ということです。先ほども触れましたが、罪ということ、聖書が示す罪というのは一言で言えば、愛さない、ということです。人間は愛され、愛する。つまり、愛し合うことで生きていくことができます。けれども、愛されない、愛さないなら生きていくことはできないのです。あなたは愛されるため生まれた。そして、神さまの愛を受けているあなたは愛するため生まれた者。そのことをおぼえて、互いに愛し合う歩みをしていきたいと思います。

祈り
主なる神さま
今朝も私たちは神さまの前に集い、礼拝をささげています。
み言葉から、古い生き方、罪に支配された生き方から、私たちを新しい生き方へ、互いに愛し合う生き方へ導いてくださったことを知りました。けれども、エフェソの教会の人たちと同じように、私たちも主の恵み、私たちのためになさった主の愛をすぐに忘れてしまう者です。目の前の出来事で心がいっぱいになり、人の言葉や行為で心がいっぱいになり、あなたの愛が見えなくなったり、分からなくなったりすることがあります。
「心の底から新たにされて」とありました。あなたは私たちの心の奥底までご存じです。すぐに揺れ動く弱い私たちのことをすべて知っておられます。どうか、私たちの心に語りかけてください。どんな私であってもあなたは変わることなく私たちを愛しておられ、私たちと一緒におられることを教えてください。
新しい一週間が始まります。私たち自身も日々新しくしてください。主に愛される喜び、主を愛し、人を愛する喜びに生きる歩みを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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