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【礼拝説教】2021年4月25日「神の言葉として受け入れる」

2021年 4月25日(朝・夕)礼拝説教「神の言葉として受け入れる」テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章13~16節

聖書―テサロニケの信徒への手紙一2章13~16節
(はじめに)
使徒パウロがテサロニケの教会に書き送った手紙、テサロニケの信徒への手紙一の言葉を読みました。この手紙の最初のところには、このようなことが書かれていました(1章2、3節)。
1:2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。1:3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
パウロは神さまに感謝していると言っています。その感謝というのは、テサロニケの教会の人たちが「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」についてでした。そして、今日お読みしました聖書の言葉にも、パウロの感謝の言葉がありました。
2:13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。
信仰生活、イエス・キリストを信じる歩み、それは神さまに対する感謝の生活、歩みです。私たちに命を与えてくださり、私たちを罪から救い出してくださり、新しい人生を導いてくださった神さまへの感謝からすべてのことは行われるのです。

(聖書から)
さて、今日の聖書の言葉の最初の部分にも、神さまへの感謝の言葉が書かれていましたが、「わたしたちは絶えず神に感謝しています」とありますように、神さまへの感謝について、「絶えず」感謝している、とありました。このテサロニケの信徒への手紙一の5章16~18節には、このような言葉があります。
5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
この言葉を愛唱聖句にしている方もおられると思います。ここには「いつも」、「絶えず」、「どんなことにも」とあります。時々、何かあったら、ある一定の期間だけということではありません。信仰生活というのは、継続したものであること、また日常のただ中のことであることが分かります。
パウロがこの箇所で感謝を表した理由は何かというと、「このようなわけで」とありますから、この手紙のこれまでの内容について、ということになります。パウロは神さまの一つ一つの恵みを思い起こし、感謝を表しています。さらに13節の続きを読みますと、このようなことが書かれています。
2:13 なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。
パウロはテサロニケの教会の人たちが神さまの言葉を受け入れたことを感謝しているというのです。イエスさまを信じて、信仰生活を送っておられる方にとっては、神さまの言葉を受け入れるということは当たり前のことのように思うかもしれません。しかし、改めて考えてみますと、これは当たり前のことではありません。ここには「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」とありました。パウロたちが語った言葉を人の言葉としてではなく、神さまの言葉として受け入れた、とあります。
私たちがイエスさまを信じる前は、聖書の言葉を、また礼拝で牧師が語る説教を神さまの言葉として受け入れ、それを聞く、ということはなかったと思います。聖書に書かれていることは、誰か人が書いたことだろうと考えていたと思います。説教というのは、牧師という人間が話していること、人の言葉に過ぎない、と考えていたと思います。私は牧師の家庭に生まれ、育ちましたが、子供の時、牧師である父が教会の礼拝で説教をしていても、それを神さまの言葉とは考えていなかったと思います。父が何か難しい話をしている、ということぐらいにしか思っていなかったと思います。
パウロが人々に語ってきた言葉、そのことについて、パウロはコリントの信徒への手紙一1章でこのようなことを書いています(一コリント1章23、24節)。
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
パウロは、自分たちは人々にキリストを宣べ伝えてきた、と言っています。それは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」とありますが、キリストを信じない者にとっては、つまずきであり、愚かなこととしか受け止められない言葉であるというのです。しかし、キリストの救いを信じる者にとっては、神さまの力、知恵であるということです。
聖書の言葉、説教を通して語られる言葉、それを人の言葉としてではなく、神さまの言葉であると信じ、受け入れた。それは神さまが私たちの霊の目を開かせて、そうさせてくださったのです。私たちが今、聖書の言葉を人の言葉としてではなく、神さまの言葉として信じ、受け入れることができるようになったのは、神さまのなさったお働きであり、人間の知恵や力によることではありません。奇跡とも思えるようなことなのです。
13節の後半の言葉をもう一度読んでみますと、「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。パウロは、神さまの言葉はあなたがたの中に現に働いている、といいます。言葉がその人の中に働く、ということですが、私たちはそのようなことはいつも体験していると思います。人から励ましや慰めの言葉を聞くと、その言葉によって弱っていた心が力づけられるようなことがあります。言葉が私たちを生かす、という出来事が起こります。一方、否定的な言葉を聞くと、すっかり落ち込んでしまうことがあります。この場合は言葉が私たちを殺す、と言ったらいいでしょうか。言葉は人を生かすことがあれば、殺すこともあります。このように、言葉の持つ力ということは私たちも知っていると思います。神さまの言葉も私たちの中に働くというのです。では、神さまの言葉はテサロニケの教会の人たちにどのように働いたでしょうか。14節にはこのようなことが書かれています。
2:14 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。
テサロニケの教会の人たちがユダヤの、キリストに結ばれている神さまの諸教会に倣う者となった、というのです。神さまの言葉を受け入れた人は、神さまの言葉に心が支配され、動かされ、それに生きる者とされるのです。例えば、私たちは聖書から、神さまは愛であることを知ります。そして、神さまに愛されていることを知る自分も神さまの愛に生きようとこころざします。けれども、自分が神さまの愛には遠く及ばない、愛の乏しい者であることに気づかされ、そういう自分に失望することもあるでしょう。しかし、愛の乏しい、無力な自分であることに気づかされるだけで留まらず、神さまの愛に生きるように祈り求めていく時、私たちの中で変化が起こってくるのです。急に、いきなり、大きく変化するのではありません。少しずつ変化していきます。そのことについて、パウロはこのように書いています(二コリント3章18節)。
3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
私たちが神さまの言葉を受け入れることができるようになること、そして、神さまに倣う者となること、これらのことは神さまの霊、聖霊の働きによることです。そのために大事なことは、祈り求めることです。求めるならば、神さまは応えてくださいます。

(むすび)
今日お読みしました13節の「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」。このことについて、最後にお話しして終わりたいと思いますが、神さまの言葉を語るということ。人間にそのようなことができるのでしょうか?私たち人間は罪深い者です。私たちの口から出ることの多くは、神さまの愛と正しさからかけ離れています。そういう者が神さまの言葉を語ることができるでしょうか?神さまの言葉を聞くということ。人間にそのようなことができるのでしょうか?私たち人間は罪深い者です。私たちの耳は神さまの言葉を正しく聞くことができるでしょうか?
コリントの信徒への手紙一1章21節に「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」とあります。神さまは、私たち人間を救うために、「宣教という愚かな手段」をとって、それを行われました。「宣教という愚かな手段」というと、分かりにくいですが、今お話ししました私たちのことを言っています。口も、耳も、罪に支配され、汚れているような私たち、そういう愚かな私たちを、神さまはご自分の救いを伝えるために用いられた、ということです。主が私たちを用いられる時、私たちの口が神さまの言葉を語ることができるようになる。主が私たちを用いられる時、私たちの耳が神さまの言葉を聞くことができるようになる。私たちはその恵みにあずかっていることをおぼえ、パウロが感謝したように、私たちも神さまに感謝したいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
私たちをここに呼び集めてくださり、感謝します。
私たちは罪深い者であり、神さまの言葉を語ることができる者ではありません。また神さまの言葉を聞くことができる者でもありません。しかし、そういう私たちを主は用いてくださり、語る者に、聞く者にしてくださったことを心から感謝します。
今日の聖書の言葉に、神さまの言葉は私たちの中に働いているとありました。私たちの心をとらえ、あなたの方を向いて生きる者としてください。主の愛と正しさが私たちを通して表されますように、私たちをお用いください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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