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2020年7月12日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「人から出てくるもの」


聖書―マルコによる福音書7章14~23節
(はじめに)
心の洗濯。こういう言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。以前、私はある方とお話していましたところ、教会においでになっている方には感心します、と言われるのです。どういうことだろうか、とお尋ねしましたところ、毎週のようにご出席されて、やはり、心の洗濯においでになっているのでしょうね?と言われるのです。心の洗濯というのは面白い言葉だなあ、と思いました。でも確かに私たちは衣服の汚れを洗い落とすために洗濯しますが、なるほど、心を洗濯するということも必要であるのだなあ、と考えさせられました。それでは衣服を洗うときは洗濯機を使いますが、心はどのようにして洗ったらよいのでしょうか?そんなところから、今日の話を始めて行きたいと思います。

(聖書から)
イエスさまは群衆にこのように語られました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(14、15節)。ここでイエスさまは何が人を汚すのか、ということをお話しされています。何が人を汚すのか?皆さんはこのことについてお考えになったことがあるでしょうか?お読みしました14、15節の後には16節があるはずですが、新共同訳聖書にはありません。実は16節は「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉があるのですが、聖書のこの箇所に、この言葉が入っていた、あるいは入っていなかった、という様々な説があるため、いろいろな聖書の翻訳を読み比べますと、違いがあるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」、この言葉を入れて読んでみますと、イエスさまは聞いても聞かなくてもよいことではなく、大事なことだから聞きなさい、と言われたという思いが伝わってきます。
先週、礼拝でお読みした聖書の箇所ではイエスさまがファリサイ派の人々と律法学者たち、この人たちというのはユダヤの宗教指導者層の人たちですが、彼らに対して、あなたがたは神さまの言葉、その教えをないがしろにして、人間の言い伝えを守っている、と厳しく語られました。彼ら自身は、自分たちは神さまの教えを忠実に守っていると考えていましたが、イエスさまの目から見るとそうではなかったのです。
このことについては、先週もお話ししたように、私たちも気をつけなければなりません。自分は神さまに忠実に従っている。正しく歩んでいる。そう思っていても、イエスさまの目から見たらどうか?そこが大事なことです。皆さんがお持ちの聖書、これはキリスト教の正典です。正典という言葉は尺度、基準という意味です。イエスさまを信じてクリスチャンになったら、聖書を読みますが、なぜ読むのかというと、これが私たちの基準、生き方の基準だからです。私たちがクリスチャンになる前は、自分の考え、思うこと、それが基準だったのではないでしょうか。クリスチャンになるということは自分の人生の主人が自分ではなく、イエスさまに変わるということです。生き方の基準もやはり、自分ではなく、イエスさまに変わったのです。聖書から語られる神さまの言葉を基準とするようになったのです。ところが、その聖書をどう読むか、聖書の読み方についても私たちは気をつけなければなりません。時に自分に都合のよいような読み方、聞き方をしてしまうことがあります。
イエスさまがファリサイ派の人々と律法学者たちに対して、厳しく語られたのは、彼らが自分たちは神さまの教えに忠実で間違いなく、正しく生きていると思っていたからです。人間は自分が正しいと思うと、周りの人を裁きたがるようになります。イエスさまはそういう彼らのあり方を厳しく問うたのです。人間は誰一人、神さまの前に正しくない。完璧な人間はいない。パウロは旧約聖書・詩編の言葉を引用してこう記しています。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)。
今日の箇所に戻ります。イエスさまがご自分の弟子たちと会話している場面が記されています。弟子たちはイエスさまが言われた「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。この言葉の意味が分かりませんでした。そこでイエスさまは彼らに分かるようにこのようなことを言われました。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」(18、19節)。
「すべての食べ物は・・・」とありますように、イエスさまは食べ物のことを例に挙げてお話しされています。食べ物というと、旧約聖書の中に「食物規定」というのがあります。何が清い食べ物で、何が清くない食べ物であるか、ということが書いてあります。それは旧約の時代、ユダヤの人たちが生きていくうえでの生活の知恵のようなものと考えたらよいと思います。ある時、ある方が私のことを牧師であると知って、何か宗教上の理由で食べてはならない食べ物、飲んではならない飲み物などはありますか?と尋ねられました。すると私はキリスト教では食べ物、飲み物の禁止というのはありません、と答えました。そして、調子に乗って、私などは何でも食べますので、体重が気になります、と言って苦笑されました。
イエスさまは人を汚す食べ物はない、と言われます。食べ物は人の体に入るけれど、人の心の中には入らない、と言われます。確かにそうです。食べ物は腹に入り、外に出される。そして、「すべての食べ物は清められる」。これはすべての食べ物は汚れていない、ということが言われているのです。イエスさまは、このようにお話しされることで、食べ物など、外側から私たちの中に入ってくるものが人を汚すのではない。人の中にあるもの、人の心にあるもの、それが問題なのだ、と言われるのです。
続いて、イエスさまはこのように言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(20~23節)。
ファリサイ派の人たち、律法学者たち、彼らは、自分たちは神さまを信じているし、神さまの教えを守っているから、清い、正しい。そのように思い込んでいたようです。しかし、イエスさまは、そうではない、と言われるのです。自分は正しく、周りの人たちは悪い、間違っている。いいえ、そうではない。人間の心の中には何があるのか?人間の心から悪い思いは出て来る。人を汚すもの、罪がある。
最初に「心の洗濯」ということをお話ししました。今日のイエスさまの言葉から、私たちは、私たち人間は心の洗濯をしなければならないことに気づかされたのではないでしょうか。ではどうやって心を洗濯したらよいのでしょうか。修行をするとか、何か訓練を受けるとよいのでしょうか?残念ですが、聖書には、人間が自分で自分の心を洗濯する、清くするということは書いていないようです。書いていないということは人間にはそれはできない、ということです。ではどうしたらよいのでしょうか。旧約聖書・詩編32編5節の言葉をお読みします。
「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました」。
私たち人間は神さまの前に立つ時、罪のあることを知ります。すべての人間は罪人なのです。そういう私たちは自分で自分の罪を消すことはできないのです。この詩編の詩人はこう言っています。「わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と」。神さまに自分の罪を告白します、と決心したのです。すると、「そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました」。神さまは私の罪と過ちを赦してくださいました、と言っています。そうです、神さまだけが私たちの罪を赦してくださる方なのです。私たちの心を洗い清めてくださる方なのです。

(むすび)
今日の説教題は「人から出て来るもの」としました。私たちには罪があるのです。それは自分の力では克服することはできません。先ほどお読みしました詩編の詩人のように、神さまの前に立ち、自分の罪を告白するのです。神さまは私たちの罪を赦してくださいます。心の洗濯のために礼拝に行く。それは間違いではありません。しかし、礼拝に出席して、何となく気持ちがすっきりした、晴れ晴れとした。それが心の洗濯ということではありません。私たちの心に、私たちの罪を赦し、罪から救ってくださる神さまの言葉を受け入れる、神さまご自身を受け入れる。その時、私たちの心は洗い清められるのです。神さまがそうしてくださるのです。神さまは私たちを罪から救うため、ご自分の大切なみ子イエス・キリストをこの世に、私たちのもとにお送りくださいました。イエスさまの十字架の出来事、それは私たちを罪から救うための出来事だったのです。今年度の私たちの教会の年度標語は「キリストに生きる新しい生活」です。イエス・キリストを心に受け入れて、罪に支配された古い生活から、イエス・キリストの愛に支配された新しい生活を歩んでまいりましょう。

祈り
私たちの造り主、イエス・キリストの父なる神さま
今日も私たちは教会に集い、あなたを礼拝しています。
自分を正しい者と考え、他者を裁く人たちに向かって、人から出て来るもの、人の心の中にあるものこそ、人を汚すものであると主は示されました。
私たちも日々の歩みの中でそのことに気づかされ、自分が罪ある者であることに悩み、苦しみます。「主にわたしの背きを告白しよう」。詩編の詩人は主の前に自分の罪を告白しました。その時、彼は神さまが私たちの罪を赦し、罪から救ってくださることを知りました。
神さま、あなたが私たちのためにご自分のみ子であるイエス・キリストをお送りくださいましたことを感謝します。自分で自分を救うことができない私たちです。どうか、私たちを罪から救い、日々、新たに生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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