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板橋区 赤塚教会

「新しい人として生きる」エフェソの信徒への手紙4章25~32節 2024/ 2/25 SUN.

「新しい人として生きる」エフェソの信徒への手紙4章25~32節 2024/ 2/25 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―エフェソの信徒への手紙4章25~32節
(はじめに)
 古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着ける。これは先週お話しした説教の内容です。私たちは、古い人、罪に支配されていた古い人から、神さまと共に生きる新しい人へ、と日々歩んでいく。信仰生活というのは、このことの繰り返しです。これも先週お読みした聖書個所の言葉ですが、18節に「神の命」とありました。17節から読みますと、「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」とありました。「愚かな考え」というのは、神さまを知らないことから出てくる考えということです。愚かな考えで歩むなら、その人は「神の命から遠く離れてい」るというのです。私は、改めて、ここに語られている「神の命」ということ、このことについて考えてみました。私たちの命というのは、神さまから与えられた命です。そうすると、私たちは、神さまの命を生きる、と言ってもよいと思います。それなのに、命を与えてくださった神さまを忘れて生きるなら、「神の命から遠く離れています」。このように言わざるを得ないのです。けれども、私たちはそういう者ではありません。私たちは、キリストに結ばれた者(21節)、キリストのものとされているのです。ですから、私たちは、神さまから与えられた命を神さまの喜ばれるように生きることができるのです。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書個所、小見出しには「新しい生き方」とありました。これは、今、言いましたように、神さまの命に生きる生き方、新しい人としての生き方と言ってもよいでしょう。そのことが語られている聖書の言葉を聴いていきます。
 まず、25節です。
4:25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
 古い人から新しい人へ。古い生き方から新しい生き方へ。このことが具体的に語られているのが、今日の聖書の言葉、25節以下の言葉です。25節が、その一番目の言葉です。偽りを捨て、隣人に対して真実を語るように、と言われています。この後には、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」という言葉が続いていますから、隣人に対して、というのは、キリストの体である教会の一人一人に対して、ということになるでしょう。もちろん、教会の中だけで、真実を語りなさい。教会の外ではどうでもよい、ということが言われているのではないと思います。むしろ、どこにあっても、誰に対しても、真実を語るように。そして、特に教会に連なる信仰の友に対しては真実を語りなさい、という意味で理解したらよいと思います。そして、この「真実を語る」ということですが、ただ私たちが正直に語る、とか、本当のことを語る、ということ、つまり、私たちの真実というだけでなく、私たち以上にはるかに真実なお方、完全に真実なお方である神さまの真実に基づいて語る、神さまの真実を語る、ということを何よりも心掛けたいと思うのです。
 続いて、26、27節をお読みします。
4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。4:27 悪魔にすきを与えてはなりません。
 新しい人としての生き方について二番目に語られているのは、「怒り」についてです。ここには、「怒ってはいけない」とは語られていません。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」とあります。イエスさまは、愛の方ですが、まったく怒ることはなさらなかったか、というと、イエスさまが怒りを表された場面はあります。例えば、「イエスは怒って人々を見回し・・・」(マルコ3章5節)とあります。イエスさまは、何の理由で怒ったのかというと、人々が片手の萎えた人に対して何の痛みや共感もなく、あのイエスという人がこの病の人に何ができるのか、何をするのか?もし、癒しでも行ったならば、この日は安息日であるから訴えてやろうとしていたという場面です。イエスさまは、人々の病の人に対する愛のない、冷たい心を知られ、お怒りになったのです。これは、正当な怒りと言うことができます。
 今日の個所に戻りますが、ここで言われているのは、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」ということでした。怒りによって罪を犯してしまうことがあるというのです。ここには、その後の言葉として、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」とあります。私たちが何か不当な扱いを受けたりするなら、それに対する抗議の意味を込めて、怒ることがあってもよいでしょう。しかし、ここには「日が暮れるまで怒ったままで・・・」とあります。怒ったままで、というのは、相手をいつまでも赦さない、ということです。つまりここで言われていることは、怒ることがあっても、怒ったままではなく、相手を赦すことに努めなさい、ということです。もしも赦さないままでいるならば、どうなるかというと、「悪魔にすきを与えてはなりません」とありました。この「すきを与える」という言葉ですが、「場所を与える」とも訳されます。私たちが赦さないままでいるなら、私たちの心に悪魔の居場所を与えてしまうというのです。怒りがさらに憎しみ、復讐へと増幅されていく。そして、赦しのない、愛のない世界、家族、教会になってしまう。そのようなことがあってはなりません。
 人を赦す、ということは、自分が受けた不当な扱い、仕打ちなどの違いで、あることについては、すぐに赦せることがあるかもしれませんが、赦すことが本当に難しいということもあると思います。人を赦すことは難しい・・・。私も時にそのようなことを思うことがあります。しかし、私たちは、そういう時、一つのことを考えてみたいと思うのです。それは、自分自身も誰かに対して、赦されなければならないことがあるのではないか?謝らなければならないことがあるのではないか?ということです。自分が他人を裁くような立場になっているだけでなく、自分もまた他人から裁かれなければならないこともある、ということです。私たちは赦し、赦され、生きる者なのです。そして、そういう私たちのために主の十字架があることを忘れてはなりません。
 次に28節です。
4:28 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
 三番目の新しい生き方、それは、盗むことを止めて、与えることへ、という転換です。ここには、「今からは盗んではいけません」とあります。「今からは」とあります。盗んでいた人は、盗むことを今すぐに止めて、与える生き方へと転換していきなさい、ということです。福音書の中に、盗むことから与えることへ、その転換をした人の証しが書かれています。ザアカイという人の話です。この人は、徴税人でした。彼は不正な取り立てをしていました。しかし、イエスさまに出会って、イエスさまにこのように言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19章8節)。イエスさまとの人格的な出会いがザアカイを変えました。盗んでいた人が与える人になったのです。出会いが人を変えるのです。私たちも日々、主と出会っていきましょう。
 そして、29節です。
4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
 四番目の新しい生き方、それは「悪い言葉」を語るのを止めて、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉」を語りなさい、ということです。「悪い言葉」というのは、「腐った言葉」とも訳されます。「悪い言葉」、「腐った言葉」、それは人を生かすことも造り上げることもない言葉です。私たちはどうでしょうか?自分が普段、相手に対して、どのような言葉を語っているか、自分の語っている言葉を吟味することは大切なことです。
 これに続いて30節をお読みします。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
 30節の言葉を29節の言葉とのつながりで理解していきますと、悪い言葉を語ることによって、神さまの聖霊を悲しませることになるというのです。聖霊が悲しむというのです。聖霊が悲しむとは、神さまご自身が悲しむということです。私たちは、日々の生活の中で、自分が語る言葉や行うこと、その一つ一つについて、神さまが喜ばれることだろうか、神さまが悲しまれることだろうか、意識しているでしょうか。それとも、神さまは愛の方だから、私たちの言うことも行うことも、全部赦しておられるから何も気にしなくてよい、と考えるのでしょうか?私は、神さまが喜ばれることは何か、悲しまれることは何か、そのことをいつも考えること、意識することは、とても大事なことだと思います。なぜなら、私たちの信じている神さまは、人格を持った神さま、生きておられる神さまだからです。何の考えも何の感情もなく、生きているのでもない、どこかにまつっているだけの神さまではありません。私たちは、聖書の言葉を通して、祈りを通して、神さまとの人格的な関係を築いていく、深めていくのです。神さまとの関係性の中で、交わりの中で、神さまの喜ばれることは何か、悲しまれることは何かを知っていくのです。

(むすび)
 最後の31、32節をお読みして終わります。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。4:32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
 新しい生き方として、五番目に語られていることがここに書かれていることです。32節に「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」とあります。親切にするとか、憐れみの心で接するということは、私たちから出たことではありません。神さまから出たことです。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように」とあります。神さまは、ご自分のみ子であるイエス・キリストによって、その愛を表してくださいました。私たちは罪によって滅びに向かっていた者でしたが、私たちを救うために、イエスさまは十字架にかかってくださり、愛と赦しを表してくださいました。私たちは、イエスさまの十字架の愛と赦しによって生かされている者です。そのことをいつも思い起こしていく。主の愛と赦しを感謝して生きる。その感謝の心から生きる生き方、それが新しい生き方です。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 私たちを古い人から新しい人へと導いてくださったことを感謝します。
 主がお示しくださる新しい生き方へと歩みたいと願う私たちです。しかし、私たちはその歩みの中で、自分自身ではそれができないことを知らされる毎日です。
そういう私たちですが、イエス・キリストの十字架の愛と赦しをいつも見上げていく者とさせてください。私は神さまに愛されている、赦されている。その感謝と喜びに満たして歩ませてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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