2020年11月1日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「イエスが一緒におられる」
聖書―マルコによる福音書9章1~13節
(はじめに)
「ここに一緒にいる人々」(1節)。お読みしました聖書の最初のところにこのようなことが書かれていました。一緒にいる。誰と一緒にいるのでしょうか。イエスさまと一緒ということです。ところでイエスさまという方はどういう方でしょうか?新約聖書の最初のところ、マタイによる福音書1章23節にはこのようなことが書かれています。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
これはイザヤという預言者がイエスさまのお生まれになる七百年ほど前に預言した「インマヌエル預言」と言われる預言の言葉です。預言というと、予知能力などの予言ということを考えるかもしれませんが、聖書に出て来る預言というのは、「預かる」という字の預言です。神さまの言葉を預かり、それを人々に伝えるというのが預言者の務めでした。
その言葉が実現した、というのが、ここに書いてあるのです。イエスさまという救い主が聖霊によってみごもったマリアからお生まれになった、ということです。インマヌエルというのは、「神さまは私たちと一緒におられる」という意味です。イエスさまという救い主は、私たちと一緒におられる神さまということです。
(聖書から)
さて、今日の聖書の言葉から聴いていきましょう。イエスさまは三人のお弟子さんたち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた、ということが2節に書いてありました。「六日の後」とありますが、これはイエスさまが弟子たちに、あなたがたは私のことを何者だと言いますか、とお尋ねになり、弟子の一人であるペトロが、あなたはメシア、救い主です!と答えてから六日後ということです(8章29節)。この時、イエスさまは弟子たちにご自分が殺され、三日の後に復活するということをお話しされました(8章31節)。私たちが知っている「十字架と復活」のお話をされたのでした。でも、この時には弟子たちはイエスさまが言われたことが何のことであるか、分かっていませんでした。
私たちも「十字架と復活」の話を聞いても、最初は何のことだか、分からなかったと思います。今日、バプテスマを受けられます河合さんと昨年の秋頃から、信仰入門クラスの学びを行いました。その学びの中では、イエス・キリストは私たちを罪から救うために十字架にかかってくださったこと、イエスさまは十字架にかかって死なれ、三日目に復活されたことも学びました。しかし、この話を聞いて、すぐには自分は神さまの前に罪人であるということ、その罪をイエスさまが救ってくださったことを理解し、信じることはできなかったと思います。それは河合さんだけでなく、私もそうでしたし、ここにおられるイエスさまを信じておられる皆さんもかつてはそうであったと思います。
ではどうしたらイエスさまを救い主と信じることができるようになるでしょうか?そのために一生懸命に聖書を何度も何度も繰り返して読み、研究したらよいのでしょうか?何か特別な修行をしたらよいのでしょうか?いいえ、どんなに研究しても、修行しても、それによってイエスさまを信じることができるようにはなれないでしょう。ではどうしたら信じることができるようになるでしょうか。聖書の中にその答えが書いてあります(一コリント12章3節)。
12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
お読みしました聖書の箇所にこう書いてありました。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない」。言っている意味はこういうことです。聖霊によるなら、誰でも「イエスさまは私の救い主です」と言うことができる。これが答えです。私たちがイエスさまを信じることができるようになるにはどうしたらよいかというと、聖霊によって、私たちはイエスさまを信じることができるようになるのです。先週信仰告白をされ、今日バプテスマを受けられる河合さん、そして、私たちも聖霊によって、イエスは主であると信じることができるようになったのです。聖霊、それは神さまご自身のお働きです。聖霊が新たに人々の心を開いて、神さまを信じ、受け入れることができますように、祈っていきましょう。
今日の聖書の箇所に戻ります。イエスさまと弟子たちは高い山に登られました。その山が何という山であるかははっきり分からないそうですが、そこで弟子たちは驚くような光景を目にします。イエスさまのお姿が変わった。イエスさまの服が真っ白に輝いた。そういうことが書いてあります。イエスさまは何をなさっていたかというと、エリヤとモーセとが現れて、イエスさまと語り合っていた、というのです(2~4節)。
エリヤとモーセというのは、旧約聖書に出て来る人物です。エリヤは預言者でした。これは先ほどお話ししましたが、神さまの言葉を預かり、人々に伝えるという務めをする人です。モーセは神さまから十戒を受けました。神さまは神さまの民であるイスラエルの民がよりよく生きていくことができるように、と神さまの戒め、律法をモーセに与えました。エリヤとモーセというのは、エリヤは預言を代表する人物、モーセは律法を代表する人物と言えます。その二人とイエスさまはお話ししていました。どんな話をしていたか、このマルコによる福音書には書いていませんが、ルカによる福音書には書いてありますので、その箇所を読んでみます(ルカ9章30、31節)。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
イエスさまがエルサレムで遂げようとしておられる最期というのは、イエスさまが十字架におかかりになることを示しています。その話を三人がしていた、というのです。でも、ペトロはその話を聞いてはいなかったようです。それよりも、三人の偉大な人物が語り合っている様子に大変感動して、こんなことを言っています。それは三人のために仮小屋を建てましょう、ということでした(5節)。これはどういう意味かというと、偉大な業績を残した人物などの銅像や記念碑が建てられることがありますが、ペトロはそういうものを建てようとしたのだと思います。でも、ペトロはイエスさまとモーセ、エリヤの三人の姿を見て、とっさに思いついて言ったことかもしれません。なぜなら、6節には、ペトロはどう言えばよいか分からなかった、と書いてあります。すると、その後、こういうことが起こります。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
雲の中から声がした、ということです。これは神さまからの声が聞こえた、ということです。神さまはこう言われました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。神さまはご自分の愛する子であるイエスさまのことを言われたのです。私の愛する子の言葉を聞きなさい、と言われたのです。
イエスさまの弟子のペトロはイエスさまとモーセとエリヤの仮小屋を建てましょう!と言いました。ペトロは何を言っていいか分からず、心にあることをそのまま語ったのだと思います。それに対して、神さまの声は、私の愛する子であるイエスの言葉に聞くように、ということでした。聞くこと、このことについて、一つの聖書の言葉をお読みします(ローマ10章17節)。
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
信仰、ここに書いてある信仰というのは「鰯の頭も信心から」という意味の信仰のことではありません。人間、どんな信仰、信心でも持つことが大事です、と言われる方がありますが、ここで言われている信仰は「イエス・キリストを信じる信仰」です。それは聞くことから始まる。それも、イエス・キリストの言葉を聞くことから始まる、というのです。
神さまがペトロに、弟子たちに教えてくださったこと、それは、イエスさまのために、モーセ、エリヤのために記念碑を建てよう、銅像を建てよう。あなたがたがすることはそういうことではない。あなたがたがすること、それはまず、私の愛する子、イエス・キリストの言葉を聞くこと、というのです。私たちも同じです。神さまのためにあれをしよう!これをしよう!それは良いことですが、まず、私たちがすべきことは何か。それは神さまの言葉を聞くことです。聞くこと、そこからすべてが始まります。
(むすび)
今日の話の初めに触れましたが、イエスさまと一緒にいた人たち。先ほどお読みしました8節にもこのようなことが書いてありました。「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。神さまからの声がして、弟子たちは急いで辺りを見回した、ということです。しかし、誰も見えなかった。ただイエスさまだけが彼らと一緒におられた、というのです。イエスさまとお話ししていたはずのモーセもエリヤもいなかった。イエスさまだけが弟子たちと一緒におられた、というのです。
聖書が示す救い主、神さまはそういうお方です。この方はどこまでも私たちと一緒におられます。私たちの人生の歩みは時に孤独を感じるようなことがあるかもしれません。私のことを本当に知っている人はいるのだろうか?私の苦しみや悩みを知っている人はいるのだろうか?私のすべてを知っておられ、その人生をいつも一緒に歩んでおられる方がいることをおぼえていてください。新生讃美歌570番、この賛美歌は「たとえばわたしが」という題が付けられていますが、「あしあと」という詩がヒントになってできた賛美歌であると聞いたことがあります。その「あしあと」という詩の一部を紹介します。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」。
主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた」。
砂の上には一人のあしあとしかありませんでした。それは、あなたが独りぼっちだったからというのではなく、イエスさまがあなたを背負って歩いていたから、ということだったというのです。私たちの救い主イエスさまは私たちと一緒におられます。そして、私たちを背負って歩いてくださるのです。イエスさまと一緒に与えられた人生を歩みましょう。お祈りします。
祈り
恵み深い主なる神さま
今日は一人の姉妹がバプテスマを受けられます。私たちは生まれながらの罪人、神さまから離れていた者でした。しかし、神さまは私たちを愛しておられるがゆえに、その大切なみ子であるイエス・キリストを私たちのところにお遣わしになりました。
今日の聖書の箇所では、イエスさまが律法を代表するモーセ、預言を代表するエリヤと三人でお話しなさったことが書かれていました。それは不思議な光景であったということですが、そこでお話しされていたことはイエスさまの最期、十字架におかかりになるということでした。
私たちはイエスさまが私たちを罪から救うために十字架におかかりになった、と聞いても、初めは何のことだか分かりませんでした。そういう私たちのために神さまは聖霊によってイエスさまの救いを信じることができるように導いてくださいました。
今、私たちがイエスさまを救い主と信じることができるのは、自分の知恵や悟りによってではなく、聖霊によって、すなわち、神さまの働きによることであることをおぼえて感謝します。どうか、一人でも多くの方々が新たに聖霊によってイエスは主であると告白できるように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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