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あなたの信仰があなたを救った マタイによる福音書9章18~26節 2023/10/08/SUN.

「あなたの信仰があなたを救った」マタイによる福音書9章18~26節 2023/10/08/SUN. 赤塚教会礼拝説教(朝・夕)

聖書―マタイによる福音書9章18~26節
(はじめに)
 イエスさまは、新しいぶどう酒を受け入れるためには、新しい革袋が必要であると言われました。新しい革袋とは何かというと、私たちのことです。古い革袋から新しい革袋になるように。でも私たちは自分の力で新しくなることはできません。ローマの信徒への手紙12章2節に、こういう言葉があります。
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
新しい革袋について、ここでは、「心を新たにする」という言葉で言い表されています。私たちも自分の心を新たにすることを願います。しかし、自分で自分を新しくすることはできません。この後には「自分を変えていただき」という言葉が続きます。そうです、私たちを変えてくださる方がいるのです。イエスさまが私たちを変えてくださいます。イエスさまと一緒に歩んでいきましょう。

(聖書から)
 さて、今日の聖書の個所に戻ります。イエスさまが新しい革袋の話をされていた時、そこに一人の人がやって来て、イエスさまにこのように言いました。
9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
「ある指導者」とあります。この聖書記事と共通する箇所がマルコによる福音書とルカによる福音書にあります。それらの箇所を見ると、「ある指導者」というのは、会堂長のことだということが分かります。また名前はヤイロとあります。会堂長というのは、ユダヤの会堂を管理する人で、それだけでなく、集会の時の礼拝の司会者、聖書朗読の個所、説教者などを決めたりもしていたようです。
会堂長ヤイロがイエスさまのそばに来て、ひれ伏した、ということです。ひれ伏す。この動作、所作はどんなことを表わしているでしょうか?どうか、私の願いを聞いてほしい、ということでしょうか。ヤイロは、イエスさまにこう言いました。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」。娘を亡くした父の言葉です。自分の娘が死んでしまった。しかし、イエスさま、あなたが娘のところに来て手を置いてくださったら生き返る。そう言っているのです。
これを聞いてイエスさまはどうされたでしょうか。死んだ娘を生き返らせてほしい。そんな無理な話を、と思われたでしょうか?19節には、このようなことが書かれています。
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
 イエスさまは立ち上がり、ヤイロについて行かれた、ということです。イエスさまの弟子たちも一緒に行った、とあります。イエスさまは立ち上がったのです。それは、娘を亡くし、悲しむヤイロの求めに応えられた、ということでしょうか。ところが、そこに一人の女性が近寄って来て、後ろからイエスさまの服の房に触れました。このために、ヤイロの家に行くことは中断されます。20節以下をお読みします。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
 十二年の間、病に苦しんでいる女性です。この女性には、二重の苦しみがありました。一つは病そのものの苦しみです。十二年、当時の平均年齢からすると、この十二年というのは、人生の半分を表わしているとも言われます。もう一つの苦しみ、それは、この女性の病について、律法には病による汚れということが書かれています(レビ記15章25、26節参照)。この女性は人々から、汚れた者と言われていたようです。
 この苦しみから救われたい。そういう思いで、イエスさまの服の房に触れたのでしょう。それにしても、なぜ、この女性はイエスさまの服に触れさえすれば、治してもらえる、と考えたのでしょうか?服の房というのは、神さまの律法、教えを思い起こす、という意味がありました(民数記15章38~40節参照)。しかし、この女性は苦しみの中で、服の房に触れることで病気が治る、と思い込んでいたのかもしれません。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
 イエスさまは後ろから、ご自分の服の房に触れた女性のことに気づかれたようです。イエスさまは、振り向かれ、その女性をご覧になりました。この女性は「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思った、と書いてありましたが、これはこの女性が口に出したことではないと思います。心の中で思っていたことです。しかし、イエスさまは、その心の中を知っておられたのです。心の中の叫びに耳を傾けておられたのです。
 彼女の心を知られたイエスさまはこう言われました。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」。イエスさまは、この女性に「娘よ」と言われました。ある方は、イエスさまは、まるで自分の子供のような思いで「娘よ」と呼ばれた、と解説しています。「元気になりなさい」。別の訳では「勇気を出せ」(田川訳)となっています。私は、この「勇気を出せ」という訳はとても良い訳だと思います。イエスさまは、勇気を出せ、と言われた。生きる望みを失っていたこの女性に、生きる勇気を出しなさい。あなたは、生きていくことができる!そう語られたのではないでしょうか。
 そして、こう言われました。「あなたの信仰があなたを救った」。「あなたの信仰」です。この女性の信仰とは、どんな信仰だったのでしょうか?それは、イエスさまの服の房に触れさえすれば治してもらえる、という信仰です。しかし、服の房に触れたら治るのでしょうか?果たしてそれが信仰と言えるのでしょうか?
 私は、高校生の時に、教会学校の小学科の教師をさせていただきました。教会学校のテキストを何度も読んで準備したことを思い出します。北海道の小さな教会で、子供たちもそんなに多くはありませんでしたが、一緒に聖書を読んだり、お祈りしたり、遊んだり、という一つ一つが楽しい思い出です。その中で特に印象的なことはお祈りでした。子供たちに短い言葉でもいいから、お祈りしてね、とお願いして、教会学校の礼拝の献金のお祈りをしてもらうことがありました。それはたどたどしい、とてもシンプルなお祈りでした。でも神さまはそのお祈りを喜んで聞いてくださっている。私はそう思いました。子供たちの言葉、子供たちのお祈りに教えられることが数多くありました。
 イエスさまのもとにやって来た女性の信仰というのは、まさにそういう信仰だったと思うのです。聖書の知識はそれほどなかったでしょう。お祈りしても立派な言葉で祈ることもできなかったでしょう。でも、彼女はイエスさまに触れたのです。イエスさまに素朴に、率直に心を向けていったのです。そのことをイエスさまは受け止めてくださり、「あなたの信仰」と言われたのではないでしょうか。
 「あなたの信仰」。それは、イエスさまに対する信頼の心です。私たちもイエスさまを心から信頼して歩んでいきたいと思うのです。

(むすび)
 イエスさまは再び、ヤイロの家へと向かわれました。23、24節をお読みします。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
 笛を吹く者たち、騒いでいる群衆というのは、ヤイロの娘が亡くなって、集まってきた人たちのことです。葬式の時には、亡くなった人を弔うために泣き女や笛を吹く人を連れてきて、一緒に悲しみを表わしたそうです。ところが、イエスさまは彼らにこう言われました。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」。悲しんでいる人たちに向かって、イエスさまは「あちらへ行きなさい」と言われました。そして、イエスさまはこう言われたのです。「少女は死んだのではない。眠っているのだ」。
 これを聞いた彼らは、イエスさまをあざ笑った、というのです。「何を言っているのか。もう死んでしまったのだ。眠っているなんてなんと馬鹿なことを言っているのだ」。そういう気持ちだったのでしょう。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。
 イエスさまは家の中に入られ、ヤイロの娘の手をお取りになりました。そうしたところ、娘は起き上がった、というのです。つまり、娘は生き返ったのです。イエスさまがヤイロの娘を生き返らせた、という奇蹟がここに起こりました。もう一度、ヤイロの言葉を思い起こしてみましょう。ヤイロはこう言いました。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」。イエスさまがおいでになって手を置いてくださったら、イエスさまが娘に触れてくださったら、生き返る。ヤイロは悲しみのあまり、このようなことを言ったのでしょうか?いいえ、私は、ヤイロは心からイエスさまを信じていたと思います。イエスさまはその信仰を受け止めてくださって、ヤイロの家に行かれたのです。
 イエスさまは、死んだのではない、眠っている、と言われました。人は死んだら、終わりではないのです。眠っている、と言われたように、眠りから覚める、起こされる日が来るのです。それが復活です。日本語で復活する、よみがえる、と訳されている言葉は、元々は、起こされる、という言葉です。ヤイロの娘はイエスさまによって生き返りました。しかし、永遠に生き続けたわけではなかったでしょう。何年後かには、地上での生涯を終えたと思います。イエスさまはこの出来事を通して、死は終わりではなく、眠りであること、主が終わりの日に復活させてくださることをお示しになったのです(ヨハネ11章24~26節参照)。
 ヤイロの信仰、十二年間、病に苦しんでいた女性の信仰、イエスさまは、この人たちの心からの求めに応えてくださり、その心からの求めを「あなたの信仰」と言われました。私たちも日々、主に触れていきましょう、主に心を向け、主に出会っていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
  イエスさまは、娘を亡くした会堂長、そして、長い間、病に苦しんでいる女性に出会い、死と病に立ち向かってくださいました(19節)。そして、彼らの主に対する信頼を受け止めてくださり、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。
私たちは死を恐れ、病を恐れ、罪を恐れ、苦しむ者ですが、主は、十字架におかかりになり死なれましたが復活され、死と病、そして、罪に勝利されました。私たちはこの方を信頼し、この方と共に歩ませてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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