【礼拝説教】2020年12月27日「わたしはあなたの救いを見た」
聖書―ルカによる福音書2章21~40節
(はじめに)
今年も残り少なくなりました。今年は年が明けたと思ったら、春には新型コロナの感染拡大ということで今までに経験したことのない新しい生活様式を強いられるようなことにもなりました。テレビなどでは毎日の感染者数、重症者数、死者数などが報じられ、日々、目に見える形で命の問題が表されています。そういう中で私たちは神さまの救いを今まで以上に意識させられてきたのではないかと思います。まだまだ収束までは時間がかかりそうですが、私たちのためにおいでくださった救い主を見上げ、この方を希望として歩んでまいりましょう。
(聖書から)
今日お読みしました聖書の箇所はルカによる福音書2章21節からです。21節には、お生まれになった幼子がイエスと名付けられたことが書かれていました。
2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
イエスと名付けられたことについて、「これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。クリスマスの時に読まれる聖書の箇所の中の一つ、マタイによる福音書1章21節にはヨセフに主に天使が夢の中でマリアが男の子を産むこと、その子をイエスと名付けるように、と語った、と書かれています。イエスという名前は当時、ユダヤでは特別な名前ではありませんでした。イエスという名前はありふれた名前でした。そして、その名前の意味は「神は救い」ということです。マタイによる福音書では「この子は自分の民を救うから」と書かれています。その名前の通り、イエスさまはご自分の民を救うためにおいでになった、お生まれになりました。
新共同訳聖書では、22節から小見出しとして「神殿で献げられる」と付けられています。マリアとヨセフはイエスさまを連れて神殿に行きました。それはイエスさまがお生まれになって八日目に割礼を施し、その後、エルサレムの神殿で祭司の立ち会いで燔祭と罪祭のいけにえをささげてもらうためと、23節に「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」とありますが、初めて生まれる男の子を聖別して神さまにささげるためでした。
この神殿で幼子のイエスさまに出会う人たちのことがこの後、書かれています。25節からお読みします。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
シメオンという人について、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み」とあります。イスラエルに救い主が与えられる。そのことを待ち望みながら生きてきた人であった、ということです。そのシメオンが幼子のイエスさまに会います。
2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
シメオンがイエス様に会い、そして、神さまをたたえる、賛美するという内容が書かれています。ここまで読んできて、とても印象的なことが三つあります。一つはシメオンが幼子のイエスさまを腕に抱いて、神さまを賛美していることです。小さな幼子、その幼子をこれが私の救いであると言っているのです。どうして、そのようなことが言えたでしょうか?
そして、もう一つのこと、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」と言っています。安らかに去らせてくださる。それは平安のうちに世を去る、ということです。またこの「去らせる」という言葉は主人が奴隷を解放するという意味です。シメオンは長い間、神さまに仕えて来た人でした。その役目を無事に終えて、私は平安のうちに、安心して世を去ることができる、ということです。
そして、三つ目のことです。イエスさまが救いであるとシメオンは言いました。さらにこのように言っています。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」。救いは誰に与えられるのか、ということが言われています。それは「万民」、そして、「異邦人」と言っています。すべての人に、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも与えられるということです。
もう一度、シメオンが言ったこと、目の前の幼子が救いであるということ、救い主であるということ、自分は平安のうちに世を去ることができるということ、そして、救いはすべての人に与えられているということ。どうして、このように言うことができたのでしょうか?もう一度、25~27節をご覧いただきますと、シメオンについて、「聖霊が彼にとどまっていた」、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」、「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき」とあります。聖霊がシメオンに臨み、語らせた。それがこのシメオンの神さまへの賛美の言葉であったのです。
シメオンの幼子についての言葉を聞いて、イエスさまの父と母は驚いていた(33節)ということです。ヨセフとマリアは自分たちに与えられた幼子が救い主であるということはこの時、まだ分かっていなかった、ということです。シメオンは彼らを祝福し、マリアにこのように言います。
2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
マリアに対して、イエスさまのことを話しています。「倒したり立ち上がらせたり」というのは、イエスさまはこの世においては、ある人にとっては躓きであり、またある人にとっては救いとなるということです。イエスさまはすべての人の救い主ですが、私たち人間の側は、この方のことを救い主と認め、信じる人もおれば、そうでない人もいるのです。だから、「反対を受けるしるし」とも言われています。それが十字架です。私たち人間の罪がイエスさまを十字架にかけることになったのです。「――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるため」とありように、マリアはその悲しみを味わうことになるということです。救い主がお生まれになった。そのことは大きな喜びでしたが、どのようにして、救い主は私たち人間の救いを行うのか、そのことがシメオンの口を通して語られているのです。
(むすび)
救い主に会った人、シメオンの箇所を読みました。もう一人、救い主に会った人、アンナのことにも触れて終わりたいと思います。
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
アンナという八十四歳の高齢の女性のことが書かれています。彼女の生活は「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」とありますように、神さまに日々、仕えて生きてきた人でした。この人が神殿に来た幼子のイエスさまにどうしたか、というと、「そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。シメオンは幼子をその腕に抱き、神さまを賛美しました。アンナは幼子に近づいてきて、やはり、神さまを賛美し、救いを待ち望む人々皆に幼子のこと、救い主のことを話した、というのです。
私はこのアンナの姿を読み、十年以上前になるでしょうか、ある年のクリスマスのことを思い出しました。それは子供たちのクリスマスで、教会学校のおばあちゃん先生たち、その中には今はもう神さまのみもとに召された方もおられましたが、嬉しそうに、クリスマスの賛美歌を子供たちと一緒に歌って、躍っていた様子です。アンナおばあちゃんもエルサレムの人々にこの小さな幼子が私たちの救い主ですよ!心弾ませ、喜びの声をあげてイエスさまをお知らせしたことでしょう。私たちもシメオン、アンナのように、生涯かけて、イエスさまをお知らせしていこうではありませんか。お祈りします。
祈り
恵み深い主なる神さま
2020年もまもなく過ぎ去ろうとしています。今年は新型コロナの世界的な流行で、恐れおののくような思いがしましたが、医療の現場で働いておられる方々の上に、また感染し、体の不調をおぼえておられる方々の上に、主の守り、癒しがありますように。
今日は救い主に出会った二人の人の聖書の記事から聴いてまいりました。シメオンは救い主を腕に抱き、喜びの賛美をささげました。私は平安のうちに、安心して世を去ることができる。救いは万民に、異邦人に、すなわち、すべての人に与えられている、と語りました。アンナは自ら救い主に近づきました。近づくことができる、こんな身近に救い主にお会いできる。やはり、喜びをささげ、この幼子を人々にお知らせしました。
私たちの人生はただ死を待つばかりのものではありません。死を超えたお方がおられ、私たちにも死を超えて生きること、永遠の命に生きることを導いてくださいます。その命を与えてくださる救い主を私たちも伝える者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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