【週報巻頭言】2021年1月24日 主に愛され、受け入れられた者(マルコ9章30~37節)
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9章36、37節)
子供というと、可愛い、愛らしい、というイメージがあります。しかし、聖書の舞台であるユダヤにおいては、子供というと、未熟だとか、愚かだとか、否定的なイメージです。それは弟子たちが求めていたものとは正反対です。そういう子供をイエスさまは手に取り、真ん中に立たせ、抱き上げられた、というのです。そして、主は言われます。このような子供の一人を受け入れる者は私を受け入れることであり、私を受け入れる者は私をお遣わしになった方、すなわち、神さまを受け入れることであると。
弟子たちはここで深く反省して、間違ったことを求めることや目指すのは止めて、イエスさまが言われるとおり、この世において、愚かな存在、小さな存在の人たちを受け入れることに努めようと思ったでしょうか?もしそうだとしたら、イエスさまの言われたことを正しくは理解していないと思います。なぜなら、イエスさまが言われた子供というのは、自分とは別のあの人やこの人だけのことではないからです。子供というのは、弟子たち自身のこと、そして、私たち自身のことだからです。
私たちは皆、神さまの目には愚かで小さな存在なのです。神さまの前には、私は子供に過ぎない。いいえ、神さまの愛される子供です。そういう私たちを主は愛し、受け入れておられるのです。そして、私たちに主はご自分の働きを委ねられたのです。誰が偉いか、大いなる者かを論じ合う生き方から、互いが神さまに愛されている者であることをおぼえ、仕え合い、愛し合う生き方へ。新しい年もこのことに励んでまいりましょう。
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