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【礼拝説教】2021年3月21日「成し遂げられた」

聖書―ヨハネによる福音書19章17~30節
(はじめに)
 今日から受難週です。受難週の最初の日、日曜日をしゅろの主日と言います。イエスさまがエルサレムに入城された時、人々はしゅろの枝を持って、イエスさまを迎えました。その聖書の箇所を読んでみます(ヨハネ12章12~15節)。
12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」
12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
 しゅろの枝が最近の聖書の翻訳ではなつめやしの枝になっていますが、エルサレムの人々はイエスさまを歓迎し、ホサナ、ホサナと叫びました。ホサナとは「主よ、救ってください」という意味です。その人たちがこの後には、イエスさまを十字架に付けろ、と叫ぶようになります(19章)。そして、今日お読みしました聖書の箇所はイエスさまが十字架におかかりになる場面です。
 キリスト教会が大切にしてきたものの一つに「使徒信条」があります。これは聖書に書かれていること、聖書が教える信仰について、短くまとめられたものです。その中にイエスさまの十字架のことが書かれています。そこには、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」とあります。ローマのユダヤ総督ポンテオ・ピラト、この人のもとで、ピラトが総督の時代にイエスさまは十字架におかかりになった、ということが言われているのです。イエスさまが十字架におかかりになったのは歴史の中の出来事、事実であったことが示されています。

(聖書から)
 今日の聖書箇所はイエスさまが十字架を担いで、処刑場へ向かう場面から始まっています。17節に「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」とあります。このヨハネによる福音書では、イエスさまご自身が自ら十字架を背負ったことが示されています。
 イエスさまはゴルゴタというところで、十字架におかかりになりました。真ん中にイエスさま、その両脇に他の二人が十字架に付けられたことが書いてあります(18節)。その二人というのは、マタイとマルコの福音書では「強盗」、ルカの福音書では「犯罪人」と書かれています。十字架に付けられるということ、それは犯罪者に対する重い刑罰であり、死刑でありました。イエスさまはユダヤ教の体制を批判したということで、ユダヤ人の指導者たちによって、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国へ反逆者として引き渡され、十字架刑に処せられることになりました。
 イエスさまのおかかりになった十字架の上には罪状書きがありました。そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(19節)と書かれていました。ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた、ということです。それはあらゆる国の人たちにイエスさまが「ユダヤ人の王」であるということが伝えられた、ということになります。これをユダヤ人の祭司長たちが問題にします。そこで祭司長はピラトにこう言います。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
 イエスさまが「ユダヤ人の王と自称した」と書き直してほしい、と要求します。しかし、ピラトはこう答えます。「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」。イエスさまの罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かせたのはピラトでした。ピラトはそのままでよいと言っているのです。
 「ユダヤ人の王」。このことについては、クリスマスの時期によく読まれ、説教としても語られる聖書の箇所にも出ていました。東の方からエルサレムにやって来た占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」ということを言っています(マタイ2章1~3節)。
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。このように占星術の学者たちはイエスさまのことを尋ねています。すると、それを聞いた当時のユダヤの支配者であるヘロデ王とエルサレムの人々は不安を抱いた、というのです。ヘロデ王は「ユダヤ人の王」と聞き、自分の地位を脅かす存在の出現ということで、不安を抱いたと思いますが、エルサレムの人々、この人たちはユダヤ人であり、ユダヤ人の王、救い主を待ち望んでいた人たちでした。ところが、この人たちも不安を抱いた、というのです。そして、今日お読みしました聖書の箇所でも、ユダヤの人々はイエスさまが「ユダヤ人の王」と書かれていることを受け入れませんでした。
 自分たちこそは神さまを知っている、救い主を知っている。そのように考えていた人たちが、神さまがお送りくださった神の子、救い主であるイエスさまを受け入れなかったこと、一方、外国人であった占星術の学者たちやピラトから「ユダヤ人の王」という言葉が聞かれたり、書かれたりということは不思議なことです。
23節以下には、イエスさまが十字架におかかりになっている時、その十字架のもとにいた人たちの対照的な様子があったことが書かれています。
19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、
/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」
という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
 ここにはイエスさまの服を分け合おうとする兵士たちの姿があります。このことについて、聖書の言葉が引用され(詩編22編19節)、それは聖書の言葉が実現するためだった、とあります。この言葉は28節にも書かれています。イエスさまの十字架の出来事、それは聖書の言葉の実現するためでした。一方、イエスさまの十字架のそばには、イエスさまの母、その母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアが立っていた、ということです。そして、イエスさまの「母とそのそばにいる愛する弟子」ということも書かれています。「愛する弟子」とは誰のことでしょうか?このヨハネによる福音書には「愛する弟子」ということが別の箇所にも出てきます。「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」(13章23節)。この「愛する弟子」というのは、ヨハネによる福音書の他の箇所にも出てきますが(20章2節、21章20節など)、名前が分かりません。このヨハネによる福音書を書いたヨハネのことではないか、とも言われています。はっきりとしたことは分かりませんが、この愛する弟子、イエスさまの愛しておられた弟子にイエスさまはご自分の母を託した、というのです。この出来事は、教会とは何であるかを教えていると言われています。教会とはキリストの体であると聖書は語ります。キリストが教会の頭、中心であり、私たちはその体の各部分です。そういう私たちにイエスさまは言われるのです。イエスさまがご自分の母に言われたように、私たちにも「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。あのイエス様の愛する弟子に言われたように、私たちにも、「見なさい、あなたの母です」と言われるのです。それは、私たちお互いが神さまの家族であるということです。だから、互いに愛し合い、生きるように、ということです。すると、私たちは今、ここにいる教会のメンバーだけに愛を注げばよいのでしょうか。ここにいる人たちだけが神さまの家族ということでしょうか。いいえ、私たちはまだ見ていない、出会っていない家族がいることをおぼえたいと思うのです。福音を宣べ伝えるということは、まだイエスさまを主と信じていない、知らない方々に、あなたはイエスさまに愛され、造られた者。あなたも神さまの家族。このことをお知らせしていくことなのです。そして、新しい家族をお迎えしていくことなのです。

(むすび)
今日の説教は「成し遂げられた」という題を付けました。「成し遂げられた」。これはどういう意味かと言いますと、イエスさまが十字架におかかりになることによって、神さまの救いのみわざが成し遂げられた、ということです。そのことが30節に書かれていました。
19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
 イエスさまが十字架におかかりになり、死なれたこと。それは私たちの罪のためでした。私たちを罪から救い、永遠の命へ導くためでした。そのことはこの時にはまだ誰も分かりませんでした。ただピラトが罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かせたこと、別の福音書では、十字架におかかりになったイエスさまを見て、ローマの百人隊長などがイエスさまのことを「神の子」、また「正しい人」と言っていたことが書かれていました。そして、イエスさまの弟子たちは十字架におかかりになり、死なれ、三日目に復活されたイエスさまに出会い、十字架の意味を知らされていくことになります。イエスさまの救いが成し遂げられたことをおぼえ、神さまの救いのみわざに対する感謝をもって、この受難週の時を過ごしていきましょう。そして、主の復活、イースターを迎えたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 受難週の時を過ごしています。イエスさまが十字架におかかりになったことが書かれている聖書の言葉を読みました。この時には、まだイエスさまの十字架の意味は誰も分かりませんでした。
 主は死なれ、三日目に主は復活され、弟子たちに顕れてくださり、十字架の意味を知らされることになりますが、今、私たちも聖書を通して、十字架の意味、この私のための救いの出来事であったことを知らされ、感謝します。この救いの出来事を新たに知り、救い主を信じる方がありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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