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【イースター礼拝説教】2021年4月4日「私は主を見ました」

聖書―ヨハネによる福音書20章1~18節
(はじめに)
 イースター、おめでとうございます。昨年は緊急事態宣言のため、会堂に集まってのイースター礼拝を行うことができませんでした。今年は会堂に集まって、一緒にイースター礼拝を行うことができて、大変嬉しく思います。イースターは日本語で復活祭と言います。私たちの救い主イエス・キリストは私たちを罪と死の滅びから救うため、十字架におかかりになり、死なれました。けれども、主は三日目に復活されました。この復活の意味は主が私たちのために罪と死に勝利された、ということです。今日は主の復活のことが書かれているヨハネによる福音書の聖書の箇所から聴いていきます。

(聖書から)
 イエスさまの復活について、今日お読みしましたヨハネによる福音書では、マグダラのマリアと言われる女性が、イエス様が葬られている墓へ行ったことが書かれていました。マリアと聞くと、イエスさまの母のマリアのことを思い浮かべると思いますが、このマグダラのマリアという人はマグダラ出身で、かつてイエスさまによって悪霊を追い出していただいた人(マルコ16章9節、ルカ8章2節)でした。
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
 「週の初めの日」というのは、日曜日のことです。日曜日の早朝、マリアは墓へ行きました。その墓というのは、大きな石で封印されていたはずでしたが、その石が取りのけてあった、ということです。それを見たマリアはイエスさまの弟子のところへ、そのことを報告に行きます。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
 他の福音書(マルコ16章5節、ルカ24章3節)では墓の中に入って、イエスさまの遺体を確認しに行った様子が書かれていますが、マリアはイエスさまの遺体はなかったことをイエスさまの弟子に告げています。これを聞いた二人の弟子、一人はシモン・ペトロ、もう一人は「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」とありますが、彼らも墓へと向かいます。すると、二人は墓の中にイエスさまの遺体がなかったことを確認することになります。その時のことを読んでみます。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
 ここで興味深いのは、この二人の弟子は墓の中を見て、つまり、イエスさまの遺体のない空の墓を見ましたが、そのことについて、「見て、信じた」と書いてあることです。何を信じたのでしょうか。イエスさまの遺体がないことが分かった、確認した。そういう意味で「信じた」ということなのでしょうか。
 ある人は言います。この「信じた」というのは、イエスさまの遺体がないことを信じた、というのではない。イエスさまが復活されたことを信じたのだと。すぐその後にこのようなことが書かれています。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
 これを読むと、イエスさまの復活が語られている聖書の言葉を理解していなかったわけだから、イエスさまの復活を信じた、ということではないだろう、と私たちは考えるかもしれません。しかし、この「見て、信じた」というのは、やはり、イエスさまの復活を信じたことなのだ、と言うのです。そして、この「見て、信じた」というのは、弟子たちにとって、信仰の始まりだった、とも言うのです。
 信仰の始まり、というと、私はこの言葉を思い起こします(ローマ10章17節)。
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
 「キリストの言葉」、これは聖書の言葉と言ってもよいでしょう。信仰はキリストの言葉、聖書の言葉を聞くことによって始まるというのです。
 二人の弟子は空の墓を見て、イエスさまは復活されたのかもしれない・・・。その心に信仰の芽生えと言ったらよいかもしれません。小さな希望、喜びが生まれつつあったのではないでしょうか。ただまだこの時ははっきりとした確信はなかったのです。
 私たちも今に至るまでの自分の信仰の歩みを振り返ってみると、これと同じようなことだったのではないでしょうか。なんとなく、はっきりとしていないけれども・・・。今から思うと、それを信仰とは言えないかもしれない。でも、この私に信仰が与えられたのです、信仰が生まれたのです。
 今日の聖書の箇所に戻ります。マグダラのマリアは再び墓に戻っていたのでしょうか。イエスさまがいない。そのことで泣いていたようです。そこに二人の天使が現れ、マリアに尋ねます。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
 先ほどの弟子たちへの報告と同じです。イエスさまが取り去られた。どこに置かれているのか、分からない。死んだイエスさま、イエスさまの遺体を失った悲しみの涙でした。しかし、14節をご覧いただきますと、「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」とあります。後ろを振り向いたら、イエスさまが立っておられたのです。けれども、マリアはそこにおられるのがイエスさまであると分からなかった、というのです。
 イエスさまはマリアに呼びかけます。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
 イエスさまが呼びかけたのに、マリアはそこにおられるのがイエスさまであるとは気づきませんでした。イエスさまは再び、マリアに呼びかけます。
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
 マリアはイエスさまの二度目の呼びかけに、そこにおられるのがイエスさまであると気づいたようです。それで「ラボニ」とイエスさまのことを言いました。「ラボニ」という言葉は「先生」という意味だということですが、ヘブライ語で「ラビ」ということです。「ラボニ」ですと、もっと強い意味だそうです。単なる「先生」ではなく、「私の先生」ということです。
 ところで、なぜ、マリアは二度目の呼びかけで、そこにおられるのがイエスさまであると気づいたのでしょうか。名前を呼んだからです。「マリア」。名前はその人の存在を示します。マリアは自分という存在を知っておられる、愛しておられるイエスさまに気づいたのです。さらにイエスさまはマリアに語りかけられます。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 イエスさまは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。この言葉は口語訳聖書では「わたしにさわってはいけない」となっていました。触ってはいけない。イエスさまのお体に触ってはいけない、と言われているようです。しかし、ここで言われているのはそういうことでしょうか。マグダラのマリアはイエスさまの遺体を引き取るために墓へやって来たのです。この方はもう死んでしまった。愛する先生、私のイエスさまを私が引き取ります。いいえ、そうではないのです。マリア、あなたは私がもう死んでしまった、と思っている。でもそこにすがりついてはならない、留まってはならない。私は復活した、生きている。これはイエスさまがマリアに語った復活のメッセージではないでしょうか。

(むすび)
 マリアは主が言われたとおり、弟子たちのところへ行きます。
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
 マリアは弟子たちにこのように言います。「わたしは主を見ました」。この主を見た、というのは、墓に葬られ、死んでしまったイエスさま、イエスさまの遺体を見た、ということではありません。この私に呼びかけてくださった、語りかけてくださったイエスさま、復活された、生きておられるイエスさまを見た、ということです。そして、マリアは主が語られた言葉を弟子たちに伝えました。
 今日はイースター、主の復活の出来事が書かれている聖書の言葉を読みました。マグダラのマリアは復活の主を見ました。この後、復活の主は弟子たちにも顕れます。私たちも復活の主を見たいと思います。しかし、主はこう言われます。この言葉は、自分は復活の主を見ないと信じません、と言ったトマスに、そして、私たちにも言われた言葉だと思います(29節)。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 見ないのに信じる人。これは私たちのことです。そういう私たちにイエスさまは幸いと言われました。今日の説教題は「私は主を見ました」としました。でも私たちは主を見ていない、というのでしょうか。いいえ、私たちも「私は主を見ました」と言うことができるのです。肉眼ではイエスさまを見ることはできませんが、イエスさまが私たちと共におられる。そのことを私たちは信じています。それが「私は主を見ました」ということです。復活の主は今も生きておられます。私たちと共に歩んでおられます。霊の目を、信仰の目を見開いて、イエスさまを見つめて歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 あなたは私たちを罪と死の滅びから救うために、ご自分の大切なみ子であるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださいました。主は十字架におかかりになり、死なれましたが、週の初めの日、日曜日に復活されました。キリスト教会の礼拝は主の復活を記念して始まりました。今日も復活の主、生きておられる主を礼拝することができて感謝します。主が私たちをこれからも用いてくださり、私は主を見た、主に出会った、と告白することができますように。そして、主にある新しい人生を歩まれる方々がありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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