【礼拝説教】2021年5月2日「あなたの信仰があなたを救った」
聖書―マルコによる福音書10章46~52節
(はじめに)
キリスト教信仰というのは、キリスト教という宗教を信じるというよりも、一人の方に出会い、その方と一緒に人生を生きるというものです。その方というのは、誰かというと、イエス・キリストです。今日お読みしました聖書の中にも、イエス・キリストと出会った人のことが書かれていました。さっそく聖書の言葉に聴いていきましょう。
(聖書から)
お読みしました聖書の箇所はマルコによる福音書10章46節からです。46節にはこのようなことが書かれています。
10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
「一行」というのは、イエスさまとその弟子たちのことです。彼らはエリコという町に着いた。そこから、話は始まります。イエスさまと弟子たちは旅の途中でした。どこに向かっていたのかというと、エルサレムでした。同じマルコによる福音書10章32節には、このようなことが書かれていました。
10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
イエスさまと弟子たちはエルサレムへ上っていく途中だったことが書かれています。その先頭に、イエスさまはおられ、立って進んで行かれた、ということです。その姿を見た弟子たちは驚き、恐れた、ということです。ここには、弟子たちについて、「弟子たち」とあり、また「従う者たち」とも書いてあります。このことから、イエスさまの弟子というのは、イエスさまに従う者であるということが分かります。そういう彼らはなぜ、驚き、恐れたのでしょうか?
この時、イエスさまはご自分がエルサレムでどのようなことになるのか、お話しなさっていました。新共同訳聖書の小見出しで見ると、分かりますが、マルコによる福音書8章31節からの箇所には、「イエス、死と復活を予告する」とあります。また同じくマルコによる福音書9章30節からの箇所には、「再び自分の死と復活を予告する」とあります。そして、10章32節からの箇所には、「イエス、三度自分の死と復活を予告する」とあります。これまで、イエスさまは三回も、弟子たちにエルサレムでご自分がどのようなことになるのかを予告しているのです。死と復活。イエスさまは十字架におかかりになり、死なれ、三日目に復活されることをお話ししているのです。弟子たちは繰り返し、イエスさまが語られても、意味が分かっていないようでした。また信じたくも、受け入れたくもないことだったのかもしれませんが、エルサレムへ向かうイエスさまのお姿を見て、イエスさまの言われたことを受け止めなければならないと思い、驚きと恐れがその心を支配したのかもしれません。
さて、今日の箇所に戻ります。イエスさまはエリコの町で一人の人と出会います。その人について、「ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた」とあります。この人が叫びだした、というのです。なぜ、叫びだしたのか?47節にはこのように書かれています。
10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
エリコの町にイエスさまがやって来た。そのことを聞いて、叫んだ、ということです。何と叫んだかというと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ、ということです。イエスさまのことは知っていたのでしょうか?イエスさまのことを「ダビデの子」と言っていますが、これは当時、ユダヤの人々が待ち望んでいたメシア、救い主のことです。神さまは私たちに救い主をお送りくださる。その方はダビデの子、つまり、イスラエルの偉大な王であったダビデの子孫であると考えられていたのです。バルティマイは目が見えない人だったということですが、この人も救い主を待ち望む一人であったようです。彼はさらに叫び続けた、ということです。48節をお読みします。
10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
多くの人々が叱りつけて黙らせようとした、ということですが、それは大きな叫び声だったのでしょう。イエスさまに向かって、大声で叫んで、けしからん、と叱ったようです。この時の人々の思いとバルティマイの思いはどちらもイエスさまに対して、イエスさまに向かっての態度であったと思います。人々は大声で叫ぶバルティマイのことをイエスさまが大変迷惑していると思ったのではないでしょうか。それで叱りつけ、黙らせようとしたのでしょう。一方、バルティマイはイエスさまがおいでになったのを聞いて、この方こそ、救い主だ。どうか、私を憐れんでください!と必死で、心の底からの叫びをあげたのではないでしょうか。イエスさまはこれを聞いてどうされたのでしょうか。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
イエスさまの様子、そして、その言葉が書かれています。「イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた」。イエスさまは立ち止まった、というのです。立ち止まった、というのは、バルティマイの心の叫びを聞き、それを受け止めてくださった、ということではないでしょうか。私はこの時のイエスさまの様子を読み、励ましを受けました。イエスさまはバルティマイの心の叫びを聞いてくださったように、この私の、そして、この教会の一人一人の心の叫びを、祈りを聞いてくださっている。その確信と言ったらよいでしょうか、励まされたのです。
イエスさまは立ち止まり、さらに人々にこのように言われました。「あの男を呼んで来なさい」。イエスさまはバルティマイをご自分のところに来るように、と言われました。人々はバルティマイのことを叱り、黙らせようとしました。それはイエスさまにとって迷惑なことと思ったからです。でも本当は自分たちがこの人のことを迷惑だと思い、不快に思っていたのではないでしょうか。私たちが思っているように、イエスさまも困っているに違いない。しかし、イエスさまは彼らの思っているようにはお考えになっていませんでした。彼らはイエスさまの言葉を受けて、バルティマイを呼びに行きます。彼らはバルティマイにこう言いました。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。
私はバルティマイを叱り、黙らせようとした人たちというのは、まるで私たちのようだ、と思いました。私たちは聖書を読み、祈り、イエスさまの心、考え、思い、そういったことを知ろうとします。私たちの信仰生活というのは、度々、軌道修正、方向転換させられるようなものです。自分ではこれが最善だ、これが正しいことだ、と考えていても、イエスさまによってひっくり返されるようなことが幾度もあります。そして、自分の信仰が打ち砕かれて、イエスさまのお示しになる信仰へと導かれるのです。今日の箇所のこの人々もイエスさまの言葉を聞いて、ああ、イエスさまは私たちの思うように、バルティマイのことを考えてはおられない。イエスさまはこの人をご自分のところにお呼びになりたいのだ!彼らも軌道修正、方向転換させられて、バルティマイを呼びに行ったのです。その言葉を聞いたバルティマイについて、50節には、このように書かれています。
10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
バルティマイは上着を脱ぎ捨てました。上着はバルティマイの体を覆うもの、つまり、身を守るためのものでした。また上着は物乞いをするための道具でもありました。でも、上着を脱ぎ捨てたというのは、本当に自分の身を守るものは何であるかを知り、今までの生活、生き方を止めたのです。そして、躍り上がって、喜んで、イエスさまのところへ行ったのです。バルティマイはこのようにして、イエスさまと出会うことになります。
(むすび)
10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
今日の最後の箇所を読みました。バルティマイはイエスさまと出会い、対話をします。私たちの信じる神さま、救い主という方は対話をされる方です。私たちは聖書を読むことを通して、祈ることを通して、神さまと対話をするのです。イエスさまはバルティマイに問いかけられます。「何をしてほしいのか」と。イエスさまはバルティマイの心の中もすべてご存じであったでしょう。しかし、ご自分と直接、出会い、向き合うことを望まれたのです。あなたが私に願っていることは何か?あなた自身の言葉で言いなさい、と言われたのです。すると、バルティマイは「先生、見えるようになりたいのです」と言いました。この「先生」という呼び方は、ラブーニという言葉で、私の先生という意味です。この人はまだイエスさまがどのような方であるか、はっきりとは知りませんでしたが、イエスさまのことを、彼にとっては、最高に素晴らしい方、という意味で言ったのです。そして、見えるようになりたい、と率直に自分の願いを申し上げました。
イエスさまは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。「あなたの信仰」とあります。それはイエスさまに対する心からの信頼です。バルティマイは目が見えるようになりました。今日の最後の言葉はこのようなものでした。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」。バルティマイの目が見えるようになった。しかし、そこで今日の話は終わりではありません。「すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」。見えたということで話は終わってはいません。彼は、なお道を進まれるイエスさまに従った、というのです。目が見えるようになったのが救いではありません。目が見えるようになっただけでなく、霊の目が開かれ、イエスさまに従うようになった。それが救いです。イエスさまと一緒に道を歩む、十字架の道を歩む。それが救いです。私たちもイエスさまと一緒に歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
今日も主が私たちにご自分のところに来るように呼びかけてくださり、語りかけてくださることを感謝します。
なお道に進まれるイエスさま。まだこの時はイエスさまの弟子たちは、そして、バルティマイも、イエスさまの歩まれる道がどのようなものであるか、はっきりとは分からなかったと思います。しかし、そういう彼らをご自分についてくるように導かれました。
十字架の道を歩まれるイエスさま。私たちを愛するゆえに、私たちが愛に生きるために、主がその道を歩まれたことをおぼえて、それに続く者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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