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【礼拝説教】2021年6月20日「神に喜ばれるために」

2021年6月20日(日)(朝・夕)礼拝説教「神に喜ばれるために」テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章1~12節

聖書―テサロニケの信徒への手紙一4章1~12節
(はじめに)
 説教の題を「神に喜ばれるために」としました。これはお読みしましたテサロニケの信徒への手紙一4章1節から取りました。「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」。イエス・キリストを主と信じて歩むということ、信仰生活とは、神さまに喜ばれるためにどのように歩むべきか。このことを追い求める歩みです。しかし、この歩みには、とても大事な前提があることを忘れてはなりません。それは、まず、私たち自身が神さまに喜ばれている者ということです。神さまに喜ばれている私。そのことを私たち自身がしっかりと受け止めていくことから、神さまに喜ばれる歩みが始まるのです。

(聖書から)
 もう一度、最初の1節をお読みします。
4:1 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。
 この手紙を書いたパウロはテサロニケの教会の人たちに向かって、このように言っています。「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました」。パウロがテサロニケの教会の人たちに伝えたかったこと、教えたかったこと、それは神さまに喜ばれる歩みということでした。そればかりか、パウロはテサロニケの教会の人たちのことをこのようにも言っています。「そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください」。
 イエスさまと共に歩むこと、信仰生活は、生涯にわたる歩みです。しかし、この歩みを続けることが困難になるようなことも度々あります。ですから、私たちは互いに励まし合うことが必要です。私たちが教会に集い、主にある兄弟姉妹と会うのは、励まし合うためと言ってもよいでしょう。お互いが主に喜ばれている者、その存在を喜ばれている者、そのことを確認し合い、お互いに励まし合い、祈り合うのです。世にあってはいろいろなことがあるけれども、主と共に歩み続けましょう。そのように声を掛け合っていくのです。
 3節からの言葉をお読みします。
4:3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4:4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。4:6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。4:7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
 「神の御心」とありました。神さまの心。神さまのお考え、神さまが求めておられること。それは何かというと、「あなたがたが聖なる者となること」とあります。「聖なる者」、私たちの一般的なイメージでは、聖、聖(きよ)いというと、私たち人間にとっては、ほど遠いこと、別世界のように考えるかもしれません。ここには、その「聖なる者」とは何かについて、具体的なことが書かれていますので、そこから考えてみましょう。
 「すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません」(3~6節)。ここには、妻との生活という具体例から言われています。つまり、「聖なる者」として生きるというのは、観念的なこと、頭の中だけのことではなく、実際の生活のただ中のことであるということです。例えば、私たちが日曜日には、教会に来て、神さまを礼拝し、賛美し、何か心が洗われたような気持ちになる。それはそれで良いのですが、教会から帰ってくると、日曜日が過ぎると、聖書の言葉も、神さまのことも何もかも、すっかり忘れたかのようになって、生活している。そういうものではないということです。
 「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって」(4節)とありました。ここでは妻、つまり、自分の家族のことが言われていますが、自分の生活の中で、家族であるとか、友人であるとか、そこで出会う人たちのことで考えてもよいでしょう。その人に対して、「汚れのない心と尊敬の念をもって」接する、関わるということです。
 6節にはこのようなことが書かれています。「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです」。人を踏みつけたり、欺いたりしてはいけない。もしそうするならば、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになる、とあります。聖書協会共同訳では「主はこれらすべてのことについて正しく裁かれる」とあります。
 私たちは人を重んじたり、また軽んじたりしてしまうことがあります。それは自分の中で、その人の価値を測っているからです。自分にとって、この人は価値のある人、あの人は価値のない人・・・。人のこともそうですが、自分のことも何か失敗し、挫折すると、自分には価値がないと考えてしまいます。けれども、神さまはそのことを厳しく戒められるのです。なぜなら、すべての人間は神さまが創造された、お造りになった者であり、神さまの目には誰もが大切な存在だからです。そういうお互いのことをこの人は価値があるとか、あの人は価値がないとかと測ってはならないのです。イエスは主であると信じて生きるとは、自分の秤、物差しで生きるのではありません。神さまの秤、物差しによって生きるということです。そのことを私たちは聖書から知るのです。
 続いて9節からお読みします。
4:9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。4:10 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。
兄弟愛について語られています。あなたがた自身、神さまから互いに愛し合うように、と教えられてきた。そのことを実行もしている、とパウロは言います。そして、このように言います。「しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます」。「なおいっそう励むように」とあります。前にもお話ししましたが、私たちは生涯、求道者です。「私はもう十分に人を愛しています!」おそらく、そういう人は一人もいないと思います。特に神さまの愛を知った人はそんなことは言えないと思います。神さまの愛の前には、私たちの愛はどんなに小さなものか、と思います。でも、私たちは神さまの愛に向かって歩んでいくのです。その歩みは留まることなく、生涯続きます。神さまに愛されていることを知る私たちは愛することを止めないのです。神さまの愛に押し出されて、愛することに励んでいくのです。なおいっそう励んでいきましょう。

(むすび)
 11、12節の言葉をお読みします。
4:11 そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。4:12 そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。
 「落ち着いた生活」とあります。その生活とはどういうものかというと、「自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」ということです。落ち着いた生活をするように、とありますが、落ち着かない生活をしていた人たちがいました。それはイエスさまが再臨される、イエスさまが再び来られる。そのことを待ち望んでいた人たちの中に、イエスさまはいつ来られるだろうか、と落ち着いた生活をしないで、仕事も手に付かない状態で過ごしていた人たちがいたのです。
 宗教改革者で知られるマルチン・ルターという人はこのような言葉を遺しています。「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」。これはどういう意味かと言いますと、どんなことが起こったとしても、私は神さまが私に与えられている仕事を誠実に、黙々と行うのだ、ということです。私に与えられている仕事。仕事というと、会社に行って働くというようなことを連想するかもしれませんが、仕事というのはいろいろなものがあると思うのです。家庭での仕事があります。教会での仕事があります。いろいろなところで、いろいろな仕事があります。その与えられた仕事を私たちは誠実に行っていきたいと思うのです。私はある方が言われた言葉を思い起こします。「私にとって、最も大事な仕事、生涯かけてするべき仕事、それは生きるという仕事」。生きるという仕事、それは神さまから与えられた命を生きるということです。
 今日お読みしました最後の12節には「外部の人々に対して品位をもって歩み」とありました。ほとんどの日本語訳も「品位をもって歩み」となっていますが、「姿よく歩み」(田川訳)と訳されているものがありました。「姿」ということについて、私はキリストの姿と受け取りました。神さまから与えられた命を精一杯生きる。それこそはキリストの姿を表すことなのではないでしょうか。神さまから与えられた命を一日一日、精一杯生きる。そのようにしてキリストを表していけたら幸いです。お祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
 使徒パウロは神さまに喜ばれる生き方を教会の人たちに示していきました。しかし、それに先だって、私たち自身が神さまに喜ばれている者であることを私たちはおぼえたいと思います。神さまに喜ばれている、愛されている。それが私たちの生きる動機です、生きる力です。このことを一人でも多くの方が知ることができますように。
 主は再び来られます。しかし、その日、その時はいつなのか、私たちには分かりません。その日、その時に備えて、私たちは神さまが与えてくださった命を喜び、感謝し、精一杯生きる者でありますように。小さな私たちですが、イエスさまを表すこと、証しする者でありますようにお用いください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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