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2021年8月1日【礼拝説教】「生きている者の神」

2021年8月 1日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「生きている者の神」マルコによる福音書12章18~27節

聖書―マルコによる福音書12章18~27節
(はじめに)
 聖書には復活ということが書かれています。口語訳聖書では「よみがえり」とありました。人間は死んだらすべて終わりではない。復活がある。しかし、今日の聖書に出てくるサドカイ派の人たちは、復活はない、と言っていたということです。そのことで、彼らはイエスさまに質問しています。私たちはどうでしょうか?復活はあるか、ないか。死んだ後のことだから、分からない。あるいは、キリスト教の教えには、復活はあると言っているから、復活はあるのだと思う。けれども、本当に信じているのか?と問われると、なかなか答えられない。このようにいろいろな答えが出てくると思います。

(聖書から)
 イエスさまのところに来て、復活について尋ねたサドカイ派の人たちは、モーセの言葉(申命記25章5節)を引用して話しています。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
 これはレビラート婚と言って、一族を絶やさないために、行われた結婚のあり方です。この話をもとに彼らはイエスさまにこのような質問をしました。
12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
 七人の兄弟の話です。まず、長男が妻を迎えました。しかし、跡継ぎを残さないで死んだ。すると、レビラート婚により、次男が長男の妻だった女性と結婚した。この次男も跡継ぎを残さないで死んだ。このようにして、兄弟の方は次々と跡継ぎを残さず、死んで、その妻はその下の兄弟と結婚した。そうなると、復活の時には、七人の妻となった女性は誰の妻になるのか?という質問です。
 ところで、復活はない、と考えていたサドカイ派の人たちですが、この人たちはどういう人たちだったかと言いますと、イエスさまの時代、ユダヤ教の二つの大きな勢力がありました。その一つがファリサイ派、そして、もう一つがサドカイ派でした。ファリサイ派は復活を信じていました。復活、天使、霊はあると信じていました。しかし、サドカイ派は復活も天使も霊も信じていませんでした。
 キリスト教では、聖書というと、旧約聖書、新約聖書を正典、信仰の基準としていますが、この当時は、新約聖書というものはありませんでした。私たちが旧約聖書と言っているものがユダヤの人たちの正典でした。ファリサイ派の人たちは律法の書、預言書などと、それに伴う言い伝え、解説というものも含めて、自分たちの正典としましたが、サドカイ派の人たちは旧約聖書の中の律法の書、モーセ五書と言われる部分のみを正典としました。
 サドカイ派の人たちは自分たちが正典としていた律法の部分、私たちの持っている聖書の中で言えば、創世記から申命記までになりますが、そこには復活のことは出てこない、ということで、復活を否定していました。ですから、彼らがイエスさまに質問したこと、復活の時、この女性は七人の兄弟のうち、誰の妻になるでしょう?これはイエスさまを困らせようとしただけでなく、復活ということは信じるに価しない、ナンセンスなことなのだ、ということを言いたかったのだろうと思います。
 さて、これに対して、イエスさまは何とお答えになったのでしょうか。24節からのイエスさまの答えを読んでみます。
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
 イエスさまはまず、このように言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」。サドカイ派、その名の由来は祭司ツアドクであるとか、「正しい」という言葉からであると言われます。彼らは自分たちこそは正しく聖書を読み、聖書をよく知っている。そういう自負心を持っていたと思います。そういう人たちに向かって、イエスさまは「聖書も神の力も知らない」と言われました。
 聖書も神さまの力も知らない。思い違いをしている、とイエスさまは言われましたが、私たちはどうでしょうか。聖書を正しく読んでいるでしょうか。それとも思い違いをしているようなことはないでしょうか。このイエスさまの言葉から示されることは、聖書を知るというのは、神さまの力を知るということでもあるということです。私は聖書をよく知っている。深い聖書知識を持っている方がいるかもしれません。でも、知識はあっても、神さまの力は知らない、という方もいるのではないでしょうか。聖書を知るとは、神さまの力を知るということ。あなたがたは聖書から神さまの力を知ることが大事なのだ。そのことをイエスさまは言われたのではないでしょうか。
 さて、次の言葉から、サドカイ派の人たちの質問に対して、イエスさまは直接的にお答えになっていることが分かります。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」。サドカイ派の人たちはレビラート婚のことから、復活を信じることがどんなに馬鹿らしいことであるかを話したつもりでしたが、イエスさまはこのようにお答えになりました。復活の時、人はめとることも嫁ぐこともない。天使のようになると言われました。
 めとることも嫁ぐこともない。それはどういうことかというと、私たちの生きているこの世のこととは違うということです。つまり、復活というのは、私たち人間が考えているようなこと、この世のこととは違うということです。イエスさまからすると、サドカイ派の人たちの信仰や考え方というのは、この世のこと止まりということが言われているのです。あなたがたは目に見えること、この世のこと、それがすべてと考えている。しかし、そうではない、というのです。
 続いて、イエスさまは「天使のようになる」と言われました。私たちは復活の時、天使のようになるというのでしょうか?口語訳聖書で見てみますと、「彼らは天にいる御使のようなもの」とありました。この「天にいる」という言葉に注目したいと思います。復活の時、私たちは天にいるというのです。言葉を換えて言うと、天にいるというのは、神さまのみ手の中にあると言ってもよいでしょう。復活の時、私たちはどうなるか?イエスさまが教えられたこと、それは、私たちは天にいる、神さまのみ手の中にある。私たちはこのことを希望として信じていきたいと思うのです。
 イエスさまからこのように言われても、サドカイ派の人たちは、いえいえ、イエスさま、復活のことなど、聖書には何も書いていませんよ。何を根拠に復活についてお話しになるのですか?と反論したかもしれません。しかし、これに続いて、イエスさまは聖書から、それも、サドカイ派の人たちが正典として認めていた律法の書、モーセ五書から復活についてお語りになりました。
 「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」。この26節の言葉、「モーセの書の『柴』の箇所」とありますが、その箇所を開いて読んでみます。出エジプト記3章4~6節です。
3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
 「柴」の箇所というのは、神さまが燃える柴の炎としてモーセに顕現された、顕れた時の内容が記されているので、そう言われていますが、この時、神さまはモーセにこのように言われました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。ここで「あなたの父」というのは、父祖、祖先という意味です。モーセの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブ、私はその神さまであると言われました。そして、この箇所を引用して、イエスさまはこのように言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」。
 アブラハム、イサク、ヤコブという人たちは、イスラエルの民にとっては、父祖でした。もうすでに死んだ人たちでした。その人たちの名前を使って、神さまはご自分がアブラハムの神さま、イサクの神さま、ヤコブの神さまであると言われました。このことについて、イエスさまは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」と言われています。これはどういう意味かと言いますと、アブラハムもイサクもヤコブも生きているということです。彼らは死んではいない。この世の人生、地上の生涯は終えたけれども、神さまと共にあって生きているというのです。そのことで言いますと、創世記のエノクも同じではないでしょうか。エノクのことが書かれている箇所をお読みします(創世記5章21~24節)。
5:21 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。5:22 エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。5:23 エノクは三百六十五年生きた。5:24 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
 エノクの死について、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」とあり、直接、死については書かれていません。ヘブライ人への手紙には、エノクについて、このように書いています(ヘブライ11章5、6節)。
11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
 エノクも一人の人間であり、すでに死んだ人でした。しかし、聖書はエノクが死を経験しないように、天に移された、とあります。神さまと共に歩み、神さまが取られた。エノクの箇所からも、復活のことが示されています。

(むすび)
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、信仰によって、つまり、神さまと共にあるから生きているのだ、と聖書は語ります。そうであるならば、私たちも同じです。私たちも神さまを信じる。この方が御子イエス・キリストをお送りくださり、十字架と復活の出来事により、神さまの力により、私たちを罪と死から救い出し、永遠の命に生きるように導いてくださったことを信じる。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、その神さまは今、私の神さまとなってくださった。このことを信じて歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 復活はない、とサドカイ派の人たちは言っていたと今日の聖書に書かれていました。それは人間の分かる範囲だけ、地上のことだけ、この世のことだけがすべてということです。主はそういう人たちに向かって、「あなたたちは聖書も神の力も知らない」と言われました。
主は神さまという方についてこのように語られました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」。神様を信じるとは、神さまと共に生きるということです。それは地上のことだけ、この世のことだけで終わりません。永遠に神さまと共に生きるということです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、神さまと共に生きているように、私たちも神さまと共に生きる者としてくださったことを感謝します。そして、一人でも多くの方が神さまと共に生きる者となり、神さまの力に生かされますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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