礼拝説教⇒2021年8月8日「神の国の掟」
聖書―マルコによる福音書12章28~34節
(はじめに)
一人の律法学者がイエスさまに質問している。そういう場面がお読みしました聖書の箇所に書かれていました。その質問は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)という「掟」についての質問でした。掟というと、私たちにとっては、あまり身近なものとは思えないかもしれません。きまり、規則、そう言った方が分かりやすいかもしれません。私たちは国とか、自治体とか、そういうところだけではなく、自分の中にも、きまり、規則というものを持っているのではないでしょうか?そして、自分のきまりや規則に当てはまらないことをしている人を見ると、怒ってしまったり、嫌だなあ、と思ったりします。でも、自分も誰かから、同じように思われたりしていることを忘れてはなりません。お互いに自分のきまりや規則を押しつけたり、それによってお互いを裁いたり、それが私たちの現実です。
(聖書から)
さて、この律法学者があらゆる掟のうちで、第一にすべきものは何でしょうか?とイエスさまに尋ねたこと、それは人によって異なる掟であるとか、国や地域によって異なる掟ということではなく、普遍的な掟と言えるものでした。すべての人に、すべての国や地域にも共通する掟について、尋ねたのです。私たちをお造りになり、愛し、生かしておられる神さまが私たちに求めておられる掟、そのことについて尋ねたのです。
イエスさまに質問した律法学者、この人はとても真面目な人だったと思います。真面目というと、何か堅苦しいというイメージがあるかもしれませんが、そういう意味の真面目さではありません。一生懸命、人生を生きていこうとしているという真面目さ、生きることの真面目さです。この人はユダヤの律法学者でした。神さまが私たちに与えてくださった掟、その本質は何なのか?その中心は何なのか?そのことを真剣に考えていたのです。それでイエスさまにこのようにお尋ねしました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。
私はこの人の質問を読んで、この人がイエスさまに尋ねたように、教会に何かを求めておいでになっている方々は、教会に集まっている私たち、神様を信じている私たちに、神様を信じるとはどういうことなのか、尋ねたいと思っておられるのではないか、と思いました。そして、もし、尋ねて来られたなら、私たちは誠実に答えていかなければならないと思います。
イエスさまは律法学者にお答えになりました。29~31節に、その答えが書かれています。
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
読んでみて、分かることは、イエスさまは律法学者の質問に対して、ちょっと違った答え方をしているということです。律法学者は、あらゆる掟の中で第一のものは何ですか?と尋ねました。ところが、イエスさまは第一の掟はこれで、第二の掟はこれである、と答えているのです。どうして、こんな答え方をしたのでしょうか?第一のものは一つだけではない、ということです。第一のものは一つだけでなく、二つある、と言われたのです。イエスさまがお答えになった第一の掟と第二の掟、それは決して切り離すことができない表裏一体のものなのだ、と言われたのです。
第一の掟から見ていきましょう。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。まず、「イスラエルよ、聞け」とあります。ヘブライ語で「シェマ」というのが「聞け」ということです。イスラエル、これは神さまの民ということです。あなたがた、神さまの民よ、私の言葉を聞きなさい!ということです。この前、あるキリスト教主義の学校に隣接している施設に行きましたら、「カドシュ」というヘブライ語が書かれていました。これは日本語では「聖なるかな」と言ったらいいでしょうか。神さまはただお一人の方、聖なる方です。その神さまを愛しなさい、というのが第一の掟です。それも、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛しなさい、というのです。これはひと言で言うと、あなたがたは全人格、全存在を持って、神さまを愛しなさい、ということです。
次に、第二の掟について見ていきましょう。「隣人を自分のように愛しなさい」。隣人を愛する。文字通り読むと、お隣の人を愛するということになります。私の隣の人。近所の人のことでしょうか?具体的にはどう考えたらよいでしょうか?ある人がイエスさまにこういう質問をしています。「わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10章29節)。この質問をした人はユダヤの律法の専門家でした。彼は自分なりに答えを持っていました。私の隣人、それは同じユダヤの人たちのこと。同じ民族の人たちさえ愛しておけばよい。すると、イエスさまは当時、ユダヤ人が差別して、交際、交流していなかったサマリア人の譬え話をします。そのサマリア人は強盗に襲われ、傷ついたユダヤ人を助けたということです。そして、誰がこの傷ついたユダヤ人の隣人になりましたか?と質問者である律法の専門家に尋ねます。彼はこう答えました。「その人を助けた人です」(ルカ10章37節)。
ユダヤ人にとっては、サマリア人は自分たちの掟に当てはまらない人たちだったのです。自分たちの隣人になるはずのない人たちでした。しかし、誰が傷ついたユダヤ人の隣人になったか?と問われ、彼は傷ついたユダヤ人を助けたサマリア人が隣人になった、と答えています。主は言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい」(同)。この話から教えられることは、誰が私の隣人なのか?ということではなく、私が出会った人の隣人になるということです。ですから、「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、私が出会った人の隣人になる。そのことの促し、呼びかけと言ったらよいと思います。
イエスさまから、第一の掟は何か?という質問に対する答えをいただいた律法学者はどうしたでしょうか?
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
律法学者はイエスさまから答えをいただいて、とても喜んでいる様子です。これは神さまの真理を知った喜び、本当に大切なことを知った喜びです。これまで、イエスさまに質問してきた人たちは何とかイエスさまを困らせてやろう、貶めてやろう、という動機で質問したと思います。だから、イエスさまから答えをいただいても、喜ぶことはなく、ちくしょう、やられた、という反応でした。議論のための議論、相手を攻撃するための議論、そういうことばかりでした。しかし、この律法学者は違いました。イエスさまから教えていただきたい。あなたの言葉から本当のことを知りたい。これが神さまの言葉に対する正しい姿勢、態度です。イエスさまも議論するためではなく、相手を打ち負かすためではなく、あなたが神さまの言葉によって生きるために。その思いから語られたのです。私たちにもその思いから語られているのが、この神さまの言葉なのです。
(むすび)
主の言葉を聞いて喜ぶ律法学者に主はこう言われました。
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
主は律法学者が主の言葉を受け止めて、適切な答えをしたことを見て、このように言われました。「あなたは、神の国から遠くない」。ここでイエスさまが「神の国から遠くない」と言われたことについて、いえいえ、イエスさま、せっかくこの律法学者があなたの言葉を素直に聞いて答えているのだから、あなたは神の国の一員だ、もう神の国に入った、そう言ってあげた方がよいのではないですか?と言いたくなるのは私だけでしょうか?でも、イエスさまはそうは言っておられないのです。言われたのは「神の国から遠くない」ということでした。
これは、あなたが神の国へ入るには、あともう一歩という意味でしょうか?いいえ、私はこの言葉はこの人に対する神の国への喜びの招きの言葉だと思います。あなたは神の国から遠くない。それは、あなたは私と共に神の国を生きる者となるのだ。私と共に、神さまを愛し、隣人を愛する歩みを今から始めよう。そういう招きの言葉だと思います。そして、この招きの言葉は今、私たちにも与えられているのです。
祈り
恵み深い主なる神さま
「あなたは、神の国から遠くない」(12章34節)。主は律法学者にこう言われました。イエスさまはガリラヤで宣教を開始され、第一声として、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)と語られました。神の国は近づいた、とは、イエスさまが私たちのところに自らおいでになった、ということです。この方をお迎えするとき、その人は神の国に生きる者とされると信じます。
神さまを愛する、隣人を愛するという掟が語られていました。しかし、私たちは自分では愛することのできない者です。そういう私たちですが、主が共に歩んでくださるとき、主が私たちを愛する者としてくださることを信じます。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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