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【礼拝説教】2022年6月5日「神の言葉によって生きる」

2022年6月5日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「神の言葉によって生きる」マタイによる福音書4章1~11節

聖書―マタイによる福音書4章1~11節
(はじめに)
 今日は教会暦(教会のこよみ)では、ペンテコステ、聖霊降臨日です。ペンテコステというのは、ギリシア語で「第五十番目」という意味です。この「五十」というのは、ユダヤ教では、過越祭から、五十日目のお祭り、五旬祭という麦の収穫をお祝いする祭りの日からきています。聖書の使徒言行録2章に、その日に起きた出来事が書かれています。イエス・キリストは十字架にかかり、死なれ、三日目に復活されました。復活されたイエスさまは四十日にわたって弟子たちにお会いになられました。そして、天に上げられ、神さまのもとに帰られる時、イエスさまが弟子たちに語られた言葉がこのようなことでした。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」(使徒言行録1章4、5節)
 そして、このようにも語られました。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章7、8節)
 イエスさまの弟子たちはこの言葉を信じ、一緒に集まって祈っていた時、イエスさまが言われたとおり、聖霊が降り、弟子たちは聖霊の力によって、福音を宣べ伝えるようになりました。それでこの日を聖霊降臨日、教会の働きが始まった日ということで、教会の誕生日とも言われます。私たちも今、聖霊の力によって、福音を宣べ伝える教会として歩んでいきたいと思います。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書の箇所は、マタイによる福音書4章1節からです。新共同訳聖書の小見出しには、「誘惑を受ける」と付けられています。誰が誘惑を受けたのでしょうか?イエスさまが誘惑を受けられたのです。聖書の言葉を読んでみます。
4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
 イエスさまは悪魔から誘惑を受けるため、聖霊に導かれて荒れ野に行かれた、とあります。聖霊というのは、神さまの霊ということです。ですから、神さまに導かれた、と考えてもいいでしょう。私たちは聖霊に導かれるとか、神さまに導かれるというと、自分にとって何かとても良いことのためなのだろう、と考えるかもしれません。ところが、ここには、イエスさまは悪魔の誘惑を受けるため、聖霊に導かれた、神さまに導かれた、とあります。神さまはなぜ、ご自分の大切なみ子であるイエスさまにこのようなことをされたのでしょうか?そのことを理解するために一つの聖書の言葉を読んでみたいと思います(ヘブライ4章15節)。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
 「この大祭司」というのは、イエスさまのことです。イエスさまは、私たち人間の弱さをご存じの方です。なぜなら、ここに書かれていますように、私たちと同様に、同じように試練に遭われたからです。私たちが試練や誘惑に遭う時、イエスさまも同じ試み、誘惑に遭われた。そのことをおぼえていたいと思うのです。それではイエスさまはどのような誘惑に遭われたのでしょうか。2節から読んでみます。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 イエスさまは四十日間、断食をされました。断食というと、修行のように思われる方があると思いますが、イエスさまがなさった断食というのは、祈りに集中された、専念された、ということです。神さまに祈る、神さまに心を向ける、そういう大切な時を過ごされたのです。けれども、何も食べていませんから、お腹は空いていました。するとそこに「誘惑する者」が来ました。この「誘惑する者」というのは悪魔のことです。悪魔というと、一般的にはおどろおどろしい、怪奇映画や小説を連想される方があるでしょうが、聖書に出て来る悪魔というのは、神さまから引き離そうとする者です。イエスさまを誘惑し、神さまから引き離そうとしたのです。そのために、悪魔はイエスさまにこう言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。
 悪魔は、イエスさまが誰であるか知っていました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。お腹が空いていたイエスさまは何か食べるものでお腹を満たしたい、と思っていたかもしれません。イエスさまは神の子ですから、石をパンに変えることはできたでしょう。しかし、イエスさまはそのようなことはなさいませんでした。イエスさまは悪魔にこう答えています。
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
 この言葉を読んで、何かおかしい、と思われた方があるかもしれません。「人はパンだけで生きるものではない」。でも、パン、つまり、食べるもの、生きていくために必要なもの、それは大切だ。むしろ、ここは、人間にとって、パンは必要だ。でも神さまの言葉も大事だ。そう言えばいいのに・・・。どうでしょうか?ここでイエスさまが言われた言葉は旧約聖書・申命記の引用です。その聖書箇所を読んでみます(申命記8章2、3節)。
8:2 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
 イエスさまが引用された聖書の言葉ですが、申命記の言葉で読んでみますと、ここにはイスラエルの民が荒れ野を旅した時のことが書いてあります。神さまは彼らが生きるために必要なものを与えてくださいました。マナという天からの食物を与え、彼らのお腹を満たしてくださいました。このことを通して、神さまはイスラエルの民に、神さまは生きるために必要なものを与えてくださることをお示しになりました。そして、そのことを知った民はどうするのかというと、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」、これは神さまとの交わりの中に生きるということです。
 聖書の言葉を読みましょう、お祈りしましょう。牧師はこのことを、イエスさまを信じる人にとても大事なこととしてお勧めします。なぜなら、聖書の言葉を読むこと、聴くこと、それは、神さまとの交わりを持つということだからです。聖書から神さまのことを知る、神さまの心、お考えを知る。そして、私たちも神さまに祈り、神さまと大事なコミュニケーションを持つのです。このことをしてもしなくてもいいことだと考えて、軽んじて、怠っていくと、信仰は形骸化していきます。形だけのものになっていきます。信仰とは神さまに対する信頼です。神さまとの信頼関係に生きることです。神さまとの生きた交わりを持つことは必要です。
 悪魔の誘惑の言葉をもう一度、見てみましょう。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。これは神さまを無視した言葉です。むしろ、神さまに生きる糧を与えてください(6章11節参照)、と祈ったらどうだ、と言うべきです。悪魔はイエスさまに、神を無視して、神などに頼らないで、自分の力で石をパンに変えてごらんなさい、と言ったのです。それに対して、イエスさまは「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と言われました。神さまは、私たちが生きるために必要なものをお与えになる。その神さまを信頼し、その言葉を聴いて生きることが大事なのだ、と言われたのです。この後、悪魔はイエスさまに第二、第三の誘惑をします。
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
 第二の誘惑ですが、悪魔はイエスさまに神殿の屋根の端から飛び降りてみよ、と言います。あなたが飛び降りても、聖書に書いてあるように、天使たちがあなたを助けてくれるだろうから。でも、これはイエスさまがするべきことでしょうか?イエスさまは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と悪魔の引用した聖書の言葉に対して、聖書の言葉で答えています。でも、悪魔の聖書の引用の仕方は間違っています。悪魔は自分の考えに聖書を合わせるという引用の仕方をしています。しかし、私たちは、自分の考えに聖書を合わせるのではなく、自分が聖書の言葉から聴くのです。自分が聖書の言葉に従うのです。
 私たちは聖書から、神さまの恵みを知ります。神さまは私たちを罪から救うためにご自分の大切なみ子であるイエスさまをお送りくださいました。イエスさまの十字架と復活の救いのみわざにより、私たちは罪から救われました。けれども、それでは満足できない。神さまの救いに、神さまの恵みに満足できずに、イエスさまが私の神ならば、私を愛しておられるならば、私がもっと満足できるようなことをやってみて!そうやって神さまを試すようなことをしてはいないでしょうか?
 第三の誘惑は、自分の栄光を求めるという誘惑です。言い換えるならば、自分の栄光のために、自分の満足のために神さまを使うということです。そしてそれこそは悪魔を拝む、礼拝するということでもあるのです。これに対して、イエスさまはこのようにお答えになりました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある」。
 私たちは悪魔を拝み、悪魔に仕えることをしてはならないのです。また自分を人に拝ませ、人に仕えさせることをしてはならないのです。私たちがするべきことは自分が神さまを拝む、礼拝すること、自分が神さまに仕えることによって神さまの栄光が表されることを求めるのです。

(むすび)
 悪魔の誘惑の箇所を読んできましたが、悪魔の誘惑とは、私たちを神さまから引き離そうとすることです。神さまの恵みを忘れさせ、感謝することをさせないことです。イエスさまが悪魔の誘惑に対して答えた言葉をもう一度読んでみます。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」。神さまの言葉で生きる。私たちは神さまとの交わりに生きるのです。
「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」。神さまを試してはならない。私たちは神さまの恵みに満足し、そこに留まるのです。
そして、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある」。神さまを拝み、仕えよ。私たちは神さまを礼拝し、神さまに仕え、神さまの栄光が表されることを求めるのです。
 最初にもお話ししましたように、イエスさまは私たちの試練、誘惑、すべてをご存じです。私たちが試練や誘惑に遭う時、すべてをご存じの主が私たちを助け、守り、導いてくださることを信じて、祈りつつ歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
  主は私たちと同じ人としてこの世においでになりました。そして、私たちと同じように誘惑、試練に遭われました。そのようにして、主は私たちの弱さをご自身の身に受けられました。私たちの苦しみを共に受けられました。
 悪魔の誘惑、それは度々起こってきます。私たちの心の目を神さまから別の方に向けさせ、神さまの救い、恵みを見えなくさせます。しかし、どうか、私たちを誘惑からお守りください。どのような時、状況にあっても、主が共におられることをおぼえさせてください。
 主は悪魔の誘惑に対して、み言葉によって、お答えになりました。私たちもみ言葉に聴き従い、主との交わりに生きる、主の恵みに留まる、主の栄光を求める者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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