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【礼拝説教】2021年8月29日「聖なる山に住む」

聖書―詩編15編1~5節
(はじめに)
15:1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。
詩編15編はこのような言葉から始まります。詩編の詩人は神さまにこう尋ねます。「主よ、どのような人が・・・」。何を尋ねているのでしょうか?それは次の言葉から分かります。「あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか」。「あなたの幕屋」というのは、神さまの幕屋ということです。幕屋というのはテントのようなものと考えていただくとよいでしょう。テントというと、今はコロナ禍にありますが、この夏の季節、都心の人の多いところへいくよりも、キャンプをしに山や海へ行って、テントを張って過ごすなら、安全ではないか、と考えます。けれども、同じことを考える人たちは多くおられるようで、残念なことにあちこちのキャンプ地があまりの人の多さで密になってしまい、使用できない、営業できないということを聞きます。
神殿ができるまで、神さまの民であるイスラエルの人たちは、幕屋、移動式の神殿と言ってもよいと思いますが、幕屋で神さまを礼拝しました。もう一つ、1節には、「聖なる山」ということも出ていますが、これはエルサレムのことです。エルサレムは山の上の町であり、そこにある丘に神殿が建てられました。シオンの丘、シオンの山とも言われます。
「あなたの幕屋」、「聖なる山」、それは神さまの神殿、神さまを礼拝するところを言っているのです。そこに誰が宿ることができるのでしょうか?誰が住むことができるのでしょうか?と詩人は神さまに尋ねているのです。

(聖書から)
 元々は、この1節の言葉は、神さまを礼拝しに来た巡礼者たちが、ユダヤの祭司たちに尋ねた言葉だったそうです。誰が神殿に宿ること、住むことができるのでしょうか?その言葉が神さまを信じる人たち自身が自分の信仰を問う意味へと変化していったと言われます。ですから、1節の言葉はこのように言い換えることができると思います。神さま、私は神さまを礼拝するにふさわしい者でしょうか?このように、信仰者自身が神さまに祈り、自問自答したのです。
 続く2節以下には、その問いに対する答えのような言葉があります。2節から5節の前半までを読んでみます。
15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
15:3 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
15:4 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。
15:5 金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。
 ある牧師先生は、この言葉を読んで、がっかりしたと言います。なぜ、がっかりしたのでしょうか?この言葉を読むと、自分はそのどれにも当てはまらない。だから、この言葉からは、自分は神さまを礼拝する者、礼拝者、信仰者として、まったくふさわしい者ではないということだけが分かった、というのです。なるほど、私たちもこの2~5節の言葉を読んでみて、自分はどうだろうか?と考えてみると、その牧師先生と同じ感想を持つかもしれません。
 私もこの聖書の箇所を読んで、礼拝者、信仰者として不完全な者、不十分な者、そういうことしか考えられませんでした。ここに書かれているような生き方をするように頑張らなくては!もっともっと努力しなくては!そのようにしか受け止められないような言葉のように思えました。しかし、繰り返し、この言葉を読んでいく中で、慰め、励ましを受けたのが2節の後半の言葉でした。
 そこには、「心には真実の言葉があり」とあります。ここで言われていることは、その人の心に真実の言葉があるということでしょう。皆さんはどうでしょうか?自分の心に真実の言葉があるでしょうか?「私はできる限り、真実を求めて生きてきた。真実を語ることに努めてきた」。そのように言われる方があるかもしれません。しかし、ここで言われている真実というのは、私という人間の真実のことでしょうか?もし、そうであるならば、私は自分が真実を求め、真実を語ってきた、とは言えません。何と、自分は不誠実なことだらけだろうか、と穴があったら入りたくなるような思いです。
 この「真実の言葉」ですが、私は神さまの真実であるとか、真実である神さまの言葉というふうに理解したいと思うのです。すると、「心には真実の言葉があり」。これはこの私にも、そして、ここにおられる皆さんにも当てはまることではないかと思うのです。私たち自身は、神さまの前に真実に生きているかどうか、もし、問われるなら、はい!とはっきりとは答えることはできないかもしれません。でも、このことは答えることができるのではないでしょうか?私の心に神さまが語っておられる。それが「心には真実の言葉があり」ということなのです。
 私たちは真実に生きることができないでいる、不誠実と思えるような毎日かもしれない。けれども神さまはそういう私たちに語りかけておられる。私たちの心に語りかけ、私たちと共にいてくださる。だから、この「心には真実の言葉があり」という短いひと言が、私の慰めであり、励ましとなります。そして、生きる力となるのです。
 「心には真実の言葉があり」。この言葉は別の訳ではどのように訳されているでしょうか。口語訳聖書では「心から真実を語る者」、新改訳聖書は「心の中の真実を語る人」とありました。新共同訳では、私たちの心に神さまの言葉が語られている。私たちの心に神さまの言葉がある。そのように言っているように私は聞きます。さらに、口語訳や新改訳の言葉からは、その言葉を語れ、人々に語れ、と言われているように聞きます。
 先ほどの2~5節の言葉、これは巡礼者の問い、真の礼拝者、信仰者は誰でしょうか?これに対して、祭司たちが答えた言葉であると言われますが、それを読んで、がっかりしたと言われた牧師先生は、1節の言葉に慰め、励ましを受けたと言っています。もう一度、1節を読んでみます。「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか」。
 「あなたの幕屋に宿り」、「聖なる山に住む」。この「あなたの幕屋」と「聖なる山」は神殿のことであると言いました。これは現代で言うならば、教会のことであると言われます。私たちは毎週、教会に集い、神さまを礼拝しています。では誰が礼拝者に、信仰者にふさわしいのでしょうか?実はふさわしいという人は誰もいないのです。ただ一つ、ふさわしいと言うならば、それは教会に集うこと、言い換えるならば、イエスさまのもとに集うということです。イエスさまのもとに集えばよいのです。そして、「心には真実の言葉があり」とありましたが、イエスさまの言葉を聞くのです、イエスさまの言葉、つまり、命のパンをいただけばよいのです。

(むすび)
2~5節に書かれている言葉、そこには私たちがどんなに努力しても無理なように思える言葉が語られていますが、これらのことは主のもとに集い、主の言葉をいただき、そして、主と共に歩む時に実現することだと私は信じています。イエスさまと共に歩む時、その語られる言葉は実現する。私たちの間においても実現するのです。
15:5 これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。
 神さまの言葉を守る。神さまの言葉に信頼して生きる。その人は、とこしえに揺らぐことがない。なぜなら、その言葉が、主ご自身が、私たちを支えてくださるからです。主は私たちと共におられ、共に歩んでくださいます。祈りましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか」。
このように昔の巡礼者は尋ねました。私たちはそれにふさわしくないように思える者でありますが、そのような私たちを罪から救い出し、神さまのみ心に生きる、神さまの愛に生きる者へと導いてくださったことを心から感謝します。
主のもとに集い、主の言葉を聞き、主と共に歩む者として、私たちをこれからも導いてください。神さまの真実の言葉が私たちを支配するとき、私たちの間から真実が表れることを信じます。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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