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【礼拝説教】2021年1月31日 「主よ、いつまでなのでしょう」

2021年 1月31日(朝・夕)礼拝説教「主よ、いつまでなのでしょう」詩編6編1~11節

聖書―詩編6編1~11節
(はじめに)
 今日は旧約聖書・詩編6編をお読みしました。詩編とは何でしょうか?聖書は旧約、新約併せて66の文書がありますが、詩編はその中でも最も大きな文書で150編もあります。詩編を読んでみますと、賛美歌のように思えます。また祈りの言葉が集められたもののように思えます。そして、この詩編の言葉を通して、信仰ということ、神様を信じるとはどういうことなのかを教えられます。

(聖書から)
 お読みしました詩編6編の1節が表題の部分です。「指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩」とあります。指揮者とか、伴奏ということからもこの箇所が賛美歌として歌われていたことが考えられます。賛美歌とは、神さまを賛美すること、神さまに向かって、あなたこそ、まことの神さまです、と神さまをほめ歌うことです。また賛美という言葉からは、神さまは素晴らしい、神さま、感謝します、ということが歌われるように思いますが、今日の箇所を読んでいきますと、賛美というのは、それだけではないことが分かります。2節を読んでみましょう。
6:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。
 いかがでしょうか。「主よ」と詩人は神さまに呼びかけています。先ほどの表題には「ダビデの詩」とありましたから、この詩編の言葉はイスラエルの王であったダビデの言葉であると考えられてきました。これについては諸説ありますので、ここでは詩人と呼びたいと思います。この詩人は神さまに向かって、「怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください」と言っています。神さまの怒り、神さまの憤りに対して、私を責めないでください、懲らしめないでください、と言うのです。
 皆さんは神さまという方はどういうお方だと思われますか?おそらく聖書を読んでこられた方は、神さまは愛の方であり、神さまは義の方、正しい方であると言われるでしょう。けれども、ここでは神さまの怒り、憤りということが言われています。確かに神さまは愛の方であり、正しい方です。しかし、罪を悲しまれ、憎まれる方です。聖書が示す罪とは何かというと、神さまの愛と正しさとは反対のこと、神さまの愛と正しさから離れてしまっていることです。すると、この詩人は自分が罪に陥り、神さまの愛と正しさから離れてしまっていることを知り、責めないでください、懲らしめないでください、と言っているように思えます。では詩人はどのような罪を犯していたのか、具体的なことは、ここには書かれていませんから詳しいことは分かりません。
 続く3、4節をお読みします。
6:3 主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
6:4 わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。
 詩人はこのように神さまに願っています。憐れんでください、癒してください。ここに「癒し」ということが言われています。この詩編が歌われた当時、病というのは罪が原因であると考えられていました。それで詩人は癒してください、と言っているのかもしれません。私たちは病やしょうがいは罪が原因とは考えません。なぜなら、イエスさまがそう教えてくださったからです。その聖書箇所を読んでみましょう(ヨハネ9章1~3節)。
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 生まれつき目の見えない人、その人のことを弟子たちがこう言います。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。目の見えない原因、それは罪のためであるという考えです。しかし、イエスさまはこう答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
 この詩人はイエスさまが病やしょうがいについて語られた言葉は知らなかったでしょう。だから、続いて、このようにも神さまに願い求めるのです。
6:5 主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。
 「主よ、立ち帰り」とあります。これは、神さま、私のところに帰ってきてください、と願っているのです。ここまで読んできて分かることは、この詩人の切実な祈りがここに書かれているということです。先ほどは、主よ、憐れんでください、とありましたが、ここでは慈しみということが言われています。神さまの憐れみ、慈しみが私の魂を助け出してくださる、私を救ってくださる、というのです。
 6~8節にも、詩人の苦しむ心、弱り果てている様子が率直に語られています。最初に詩編というのは、神さまに向かっての賛美歌であり、祈りであると言いましたが、それは、ただ神さまは素晴らしい、神さまに感謝します、ということだけではないのです。この詩人のように、自分のありのままを神さまに打ち明け、魂をぶつけていくようなものなのです。私たちは本当に信頼できる人にはそうするのではないでしょうか。神さまこそは信頼できる方です。私たちを愛しておられ、私たちのことを知っておられる。私たちの心の奥底までご存じの方です。だから、私たちも、この詩人のように、神さまに心を開いて祈っていくのです、賛美していくのです。
 詩人の言葉が9節からは大きく変化していることが分かります。9~11節をお読みします。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。
 詩人は悪を行う者が自分から離れるように、と言っています。これは私を悪から、悪しき者から守ってください、という願いのようにも思えます。そして、それに続いて、「主はわたしの泣く声を聞き 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる」と言います。「聞き」とあるのは、聞いてくださった、ということです。神さまは私の泣く声を聞いてくださった。神さまは私の嘆きを聞いてくださった。神さまは私の祈りを受け入れてくださっている。ここには詩人の確信に満ちた言葉があります。
 先ほど、詩人の言葉が大きく変化した、と言いました。この詩人にどのような出来事が起こったのか、そのことについては分かりません。11節に「敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる」とありますから、この詩人にとっての敵、自分を攻撃する者からの守り、助けというものがあったのかもしれません。いずれにせよ、この詩人の大きな変化、大転換というのは、神さまという方はどのような方であるか、その理解の変化、転換であると思います。怒りの神さま、憤りの神さま、それが憐れみの神さま、慈しみの神さまという理解に変わっているのです。

(むすび)
 インターネットの普及により、家にいながらいろいろな情報を得ることができるというとても便利な時代になりました。新型コロナのことでステイホームが余儀なくされる今、いろいろな教会やキリスト教の団体などからもキリスト教について、聖書について学ぶことができます。しかし、信仰というものはそれだけでは学び得ない、本当には分からないということを私は強く思わされています。信仰とはキリスト教や聖書の知識を得ることだけに留まるものではありません。生きておられる神さまを私たちの日々の生活の中で、日常のただ中で体験していくものなのです。今日お読みしました詩人は病の中で苦しむ人だったかもしれません。あるいは罪に苦しむ人だったかもしれません。しかし、実際に神さまに祈り求め、神さまの言葉に聞き従っていく中で、神さまが憐れみ深い方であること、慈しみ深い方であることを知らされていったのです。
 イエスさまが神の国はいつ来るのか、というファリサイ派の人たちの質問に答える場面があります。その箇所を読んでみます(ルカ17章20、21節)。
17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 この「見える形では来ない」という言葉は「観察しうるようなさまで到来することはない」(岩波訳)とも訳されます。観察するだけでは、ただ眺めているだけでは分からない、ということでしょうか。そして、イエスさまは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。これは「あなたたちの〔現実の〕只中にあるのだ」(岩波訳)とも訳されます。ただ眺めているだけでは分からない。あなたがたの現実の只中、神さまに従って歩むその中で、神の国を、神さまを知ることができるというのです。どうか、私たちが生きて働いておられる神さま、共におられ、歩んでくださる神さまに日々、出会うことができますようにお祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主よ、いつまでなのでしょう。詩人は神さまに自分の魂の叫びをぶつけます。神さまへの賛美、神さまへの祈り、それは私たちの心の奥底からの苦しみ、嘆き、すべてを神さまに打ち明けることです。
 詩人は自分の目の前の厳しい現実を神さまの怒り、憤りと考え、主に助けを求めました。すると、詩人は、主は私の泣く声を聞いてくださった、嘆きを聞いてくださった、祈りを受け入れてくださった、と言いました。この詩人に何があったのでしょうか?何が起こったのでしょうか?そのことは分かりませんが、神さまが憐れみ深い方、慈しみ深い方であることを知りました。
 私たちも、主よ、いつまでなのでしょう、と祈ります。どうか、私たちにも語りかけてくださり、あなたが共におられ、歩んでくださっていること、憐れみの主、慈しみの主であることを信じる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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