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【礼拝説教】2021年9月26日「神の選び」

聖書―コリントの信徒への手紙一1章26~31節
(はじめに)
 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(26節)。お読みしました聖書の言葉は、このような言葉から始まります。ここで「兄弟たち」というのは、コリントの教会の人たちのことです。「兄弟たち」とありますが、コリントの教会は、私たちの教会と同じように、男性も女性もいましたから、兄弟たち、姉妹たち、と考えていただいたらよいと思います。パウロは、コリントの教会の人たちに呼びかけて、このようなことを言っています。
 「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」。ここに「召される」とあります。「召される」という言葉はあまり普段の生活では聞かない言葉です。別の聖書の訳では「招かれる」(田川訳)となっていました。召されるとは、神さまの招きということです。私たちは神さまから招かれているのです。

(聖書から)
 神さまの招きについて書いてある別の聖書の箇所を読んでみましょう(マルコ1章16~18節)。
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
 イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。そこに二人の漁師が湖で網を打っているのを見られ、彼らにこのように言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。これがイエスさまの招き、召しです。そして、イエスさまの招き、召しというのは、イエスさまが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたように、イエスさまについて行き、イエスさまのお働きに加わっていく、ということです。また、この話でお分かりのように、イエスさまの招きというのは、まず、イエスさまが私たちに声をかけてくださり、私たちがそれに応えていくというものです。
 今日の聖書の箇所に戻ります。使徒パウロはコリントの教会の人たちに語ります。あなたがたが神さまから招きを受けたことを思い出しなさい。どうして、このようなことを言ったのでしょうか?26節の後半を読んでみます。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」。
 これはコリントの教会の人たちのことです。実は、この人たちの中には、人間的に見て、自分が知恵のある者であるかのように考えている人たちがいました。人間的に見て、自分が能力のある者であるかのように考えている人たちがいました。人間的に見て、自分が何か立派な者であるかのように考えている人たちがいました。
 神さまが招いてくださった。それはこの私が招かれるのにふさわしい何かができるから、何かを持っているから、と考えていたのです。でもパウロは、あなたがたに何かができるから、何かを持っているから・・・。そういうことではない、というのです。
 続いて、パウロは、このように語ります。
1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
 ここでは、神さまの招きのことを、神さまの選びと言っています。選ばれるというと、それこそ、それにふさわしい人ということを考えます。この夏、オリンピックとパラリンピックが行われましたが、出場した選手たちというのは、選手という言葉が表しているように、選ばれた人たちです。オリンピック、パラリンピックの各国の代表となるために、予選を勝ち抜いて、選ばれた人たちでした。
 ところが、ここに書いてあることは、それとは違います。知恵ある者と無学な者だったら、どちらが選ばれるでしょうか?世の中の常識的に考えると、知恵ある者が選ばれるはずです。力ある者と無力な者はどうでしょうか?地位のある者と無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者はどうでしょうか?ここには、無学な者が選ばれた、とあります。無力な者が選ばれた、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者が選ばれた、とあります。私たちの常識や価値観から考えると、不思議なことです。
 ではなぜ、神さまはそのような人たちをお選びになったのでしょうか?その理由が29節に書かれています。
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
 私たちの誰一人、神さまの前で誇ることがないようにするため、とありました。知恵ある人、力ある人、地位のある人、そういう人たちが選ばれたなら、おそらく、このように言うでしょう。「ああ、自分には知恵があるから、力があるから、地位があるから選ばれたのだ」。そして、それがその人たちの誇りとなったでしょう。私は神さまに選ばれるのにふさわしい者だ、と神さまに対しても、人に対しても、誇ったりしたことでしょう。でも、自分には誇れるものは何もない、そういう人を神さまはお選びになった、というのです。
 私たちはどうでしょうか?自分が今、イエスさまを信じて、神さまの子として、キリスト者として歩んでいる。それは神さまに選ばれるだけの何かができるから、何かを持っているから・・・。そう考えているでしょうか?神さまの選びというのは、私たちに、選ばれるだけの何かがあるから、ということではないのです。私たちに何かがあっても、なくても、神さまは私たちを選び、招いておられるのです。
 それに対して、私たちはどうしたらよいのでしょうか?そのことは次の言葉から知らされます。
1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
 ここに「誇る者は主を誇れ」とあります。自分を誇るのではありません。神さまを誇るのです。神さまを誇る。別な言葉で言い表すと、神さまを喜ぶ、ということです。私は神さまから招かれた、選ばれた。この私を選んでくださった神さまに対して行うことは、神さまを喜ぶということです。

(むすび)
 ところで、神さまが私たちを選ばれた理由は何でしょうか?神さまはなぜ、私たちを選ばれたのでしょうか?皆さんがよくご存じの聖書の言葉から聴いていきたいと思います(ヨハネ3章16節)。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 ここには、神さまの救いについての大切なことが書かれています。神さまはご自分の独り子であるイエス・キリストをお与えになったほどに世を(ここで言う世というのは、私たちのことです)、私たちを愛された、とあります。そして、それはすべての人がイエスさまを信じて、永遠の命を得るため、とあります。この言葉から考えるなら、私たちが神さまに選ばれた、招かれた理由は、神さまが私たちを愛しておられるから、ということになるのではないでしょうか。この神さまの選び、神さまの私たちに対する愛ゆえの選びに対して、私たちは神さまを喜ぶ者でありたいと思います。神さまを喜び、神さまへの賛美、感謝を表す歩みをしていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 神さまの召し、神さまの招き、神さまの選び、それは私たちの側にそれにふさわしい何かがあるからではありません。神さまは私たちに対する愛のゆえに、私たちを召し、招き、選んでくださいました。
 その神さまを私たちは誇りとします。私たちを、神さまを喜ぶ者、神さまを賛美し、感謝する心から、すべてのことを行う者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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