【クリスマス・イヴ礼拝説教】2021年12月24日 「与えられた大きな喜び」
2021年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝説教 「与えられた大きな喜び」
聖書―ルカによる福音書2章1~20節
(はじめに)
クリスマスおめでとうございます!
イエス・キリストは今から二千年ほど前にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。それが世界で最初のクリスマスです。聖書から、そのことが書かれた箇所を読んでいきますと、イエス・キリストがお生まれになったことを知り、幼子のイエスさまがおられるところを訪ねた人たちのことが書かれていますが、その人たちというのが占星術の学者たちであり、また羊飼いたちであったということです。おそらく、最初のクリスマスというのは、イエスさまの誕生をお祝いする人たちは少なくて、それは静かなクリスマスだったのではないかと思います。
(聖書から)
イエスさまの母となる妻マリア、そして、その夫のヨセフの夫婦は当時のローマの支配者の命令で、住民登録のため、住んでいたナザレの町からヨセフの出身地であるベツレヘムへと旅していました。その旅はこの夫婦にとっては決して楽なものではありませんでした。妻マリアは身重でしたし、ナザレからベツレヘムというのは、120キロほどの距離です。東京からですと、山梨や静岡あたりでしょうか?当時は今のような交通機関が発達しているわけではありませんでしたから、それは大変なことであったと思います。ようやくベツレヘムに到着して、マリアは月が満ちて、出産したということです。聖書にはそのことがこのように記されています(ルカによる福音書2章6、7節)。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
イエス・キリストがお生まれになったところ、そこは馬小屋の飼い葉桶の中であったということは多くの人が知っていると思います。それではなぜ、馬小屋の飼い葉桶だったのでしょうか。そのことは今お読みしました聖書にありました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。泊まる場所がなかった。別の訳では「彼らのための居場所がなかった」(岩波版・佐藤研訳)とあります。
泊まる場所がなかった、居場所がなかった。マリアとヨセフ、イエスさまの家族には居場所がなかったというのです。つまり、イエスさまは居場所のない方として、この世においでになりました。居場所がないというのは本当につらいことです。自分の存在が認められるところがない、自分がそのままで受け入れられるところがない・・・。今日お読みしました聖書の中に、羊飼いたちのことが書かれていましたが、この人たちも居場所のない人たちだったと言われます。羊を飼う仕事をしていたために、安息日を守れずにいて、人々からは、律法に違反する人たちというレッテルを貼られていたようです。また生活にも困窮していたということです。そういう彼らのところに天使が現われたことが書かれていました。天使は羊飼いたちにこのように語ります。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
羊飼いたちは、天使が現われた時、恐れました。だから、天使はまず、「恐れるな」と言ったのです。恐れるということですが、羊飼いたちはいったい何を恐れていたのでしょうか?それは神さまを恐れていたのです。おそれ、というと、日本語では、畏怖の念という時に使われる畏れという言葉があります。これは神さまを神さまとして正しく受け止めるという意味になります。しかし、この時の羊飼いたちのおそれ、というのは、それとは違い、神さまを怖がるというものでした。私たちは決して正しく生きてきたわけではない。正しい人間でも何でもない。そういう私たちに神さまの天使が現われた、というのはどういうことだろうか?私たちを裁くためだろうか?羊飼いたちは恐れたのです。
しかし、そういう彼らに向かって、天使は「恐れるな」と言ったのです。なぜ、恐れなくてよい、と言ったのでしょうか。「民全体に与えられる大きな喜び」、この大きな喜びがあなたがたにも与えられたからだ、というのです。その喜びとは、あなたたちをそのままに愛し、受け入れ、一緒に歩んでくださる救い主がおいでになった、ということです。
この後、天使と天の大軍の合唱、神様を賛美する歌声が続きます。私たちの教会には、聖歌隊があります。コロナ禍にあって、昨年と今年は聖歌隊の賛美をすることができなくて、とても残念ですが、来年は聖歌隊の賛美をぜひ行ないたいと願っています。さて、その賛美というのはこのようなものでした。
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
もう一度、その賛美の言葉を読みます。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」。この賛美ですが、二つのことが言われています。まず一つは、「いと高きところには栄光、神にあれ」。これは、「いと高きところ」、天の国ということです。天の国では神さまの栄光がありますように!そして、次に「地には平和、御心に適う人にあれ」。「地」というのは、地上、この世界のことです。この地上、世界にいるみ心に適う人には平和がありますように!
み心に適う人というのは、神さまが良しとされる人、神さまが喜ばれる人ということです。皆さんはいかがですか?自分がみ心に適う人、神さまに良しと言われる人、神さまに喜んでいただける人だと思いますか?いや、自分はそういう者ではない、と思われるでしょうか?羊飼いたちは、自分たちは安息日を守れずにいるし、立派な生き方をしていないし、ダメな人間だろう。神さまからもダメ印を押されているだろう、喜ばれてはいないだろう、と考えていたかもしれません。だから、「地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美を聞いたら、ああ、自分たちのことではないな、とがっかりしたかもしれません。
でも、「地には平和、御心に適う人にあれ」というのは、そういうことではないのです。天使は羊飼いたちにこう言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。飼い葉桶とは何でしょうか。飼い葉桶というのは、馬や牛などの動物の餌箱のことです。それはきれいなものではありません。糞尿にまみれた汚いものです。救い主はそういう汚いところに生まれた。そして、それがあなたがたへのしるしだというのです。
救い主は飼い葉桶の中に生まれました。それは私たちの罪のただ中においでになった、ということです。私たちは自分自身を見つめていくなら、愛せない、赦せない、自分の汚い、醜い心に気づかされます。実は私たち人間は誰一人、罪のない人、完全な人というのはいないのです。しかし、イエスさまが飼い葉桶の中に生まれた、というのは、そういう私たちをそのままに愛し、受け入れてくださった、ということです。そして、この方は「地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美のように、私たちをみ心に適う人にしてくださるのです。
私たちは神さまから造られたものであり、神さまにとっては愛してやまない存在、大切な一人一人です。しかし、私たちは罪を犯してしまう者です。罪というのは、神さまのみ心から離れた生き方のことです。神さまの教えの中心は愛です。愛しなさい、ということです。しかし、私たちは愛さない。それは神さまを大切にしない、人を大切にしないことです。そういう私たちが神さまのみ子であるイエスさまと一緒に歩む時、イエスさまが私たちをみ心に適う者としてくださる、神さまを大切にする、人を大切にする者へと変えてくださるのです。
(むすび)
クリスマスの翌週となった今日、私たちはイエスさまがどのような方としておいでになったかをこの聖書の箇所から聴きました。主は僕として生きられました。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。私たちの生き方はいつもこれとは反対です。自分の方が優れている。自分が人より上に立つように。そういうことを求めてしまう者です。自分さえよければ良い。人のことには無関心。ますます世の中はそのようになっているのではないでしょうか。私たちもその流れに飲み込まれてはいないでしょうか?
昨年の10月にも、今日の聖書箇所から説教しました。その時には5節の言葉を中心にお話ししました。5節はこのようなことが書かれています。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
文語訳の聖書では、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」となっていました。イエス・キリストをその心に迎えた私たちはキリストの心に生きる者でありたいと思います。
祈り
恵み深い主なる神さま
この年も神さまの愛と恵みによって歩んできました。感謝します。
先週はクリスマス、神さまのみ子イエス・キリストのご降誕をみんなでお祝いしました。イエスさまを新たに心にお迎えする方がありますように。
私たちもイエスさまがこの世に来られ、僕として生きられたこと、へりくだって生きられたことをおぼえ、主に倣う歩みをすることができますように導いてください。そして、イエスさまと共に生きることの喜び、豊かさが伝わりますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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