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【礼拝説教】2021年12月26日「キリストと共に」

2021年12月26日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「キリストと共に」フィリピの信徒への手紙2章1~11節

聖書―フィリピの信徒への手紙2章1~11節
(はじめに)
 今年最後の主の日、日曜日となりました。2021年、皆さんにとっては、どのような年だったでしょうか?この一年を振り返りながら、共に聖書の言葉に耳を傾けていきたいと思います。

(聖書から)
 先週は19日にクリスマス礼拝、24日にクリスマス・イヴ礼拝を行ないました。イエス・キリストが私たちのところにおいでくださった出来事、それがクリスマスです。その方を私たちがお迎えするなら、聖書が示すクリスマスを体験することができるのです。
 お読みしました聖書の言葉は使徒パウロが書いたフィリピの信徒への手紙の中の言葉です。まず、1、2節をお読みします。
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
 この聖書箇所について、新共同訳聖書では、「キリストを模範とせよ」という小見出しが付けられています。イエス・キリスト、この方が私たちの模範です。キリスト教関係の書物では、聖書の次に読まれていると言われているのが、「キリストにならいて」という小さな書物です。キリストにならう。キリストの真似をするということです。
今年も私たちの教会では新たにイエス・キリストを救い主と信じる方がありました。本当に感謝なことです。イエスさまを信じた人のことをクリスチャン、キリスト者と言います。キリスト者、それはキリストのものとされた人ということです。キリスト者となった人はどのように生きるのか、というと、キリストにならう。キリストを模範として生きるのです。
パウロはこのように書きました。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。いかがでしょうか?「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」、これが私たちにあるでしょうか?「私は愛に乏しい者です。慈しみ、憐れみの心などありません」。このようにお答えになるかもしれません。しかし、パウロはそういうつもりで言ったのではないのです。あなたがたには、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」、これがあるはずだ、と言っているのです。
パウロがこの手紙を書いた動機、経緯については、フィリピの教会に問題が起こっていたことがあるようです。そこでパウロはフィリピの教会に手紙を書き送り、キリスト者、キリストのものとされているはずなのに、そのことをすっかり忘れてしまい、お互いが自分勝手に生きているのではないか?あなたがたはキリストを信じているのだろう?キリストに立ち帰ろうではないか!と語りかけているのです。
お読みしました聖書の中には、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とありました。「同じ」と聞くと、みんなが同じにならなければならない。個性がなくなることとか、全体主義ということを考えるかもしれません。しかし、ここで言っている「同じ」というのは、キリストと同じということです。つまり、キリストと同じ思いとなるように、キリストと同じ愛を抱くように、ということです。そして、それがパウロにとっての喜びなのだ、と言っているのです。これに続いて、3、4節にはこのようなことが書かれています。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」とあります。私たちの信仰生活はどうでしょうか?伝道するとか、奉仕をするとか、それは利己心や虚栄心から行なうようなことはないでしょうか?家庭や職場での人との関わりなどはどうでしょうか?パウロはキリストを信じて生きるということは日曜日だけのことではない。教会に来ている時だけのことではない。日常の生活のただ中でのことであると言っているのです。
 「利己心」。別の訳では「自己中心」(新改訳)とありました。ただ自分の満足のためということでしょうか?「虚栄心」。人に良く思われるためということでしょうか?そうであってはならない、とパウロは言うのです。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とあります。へりくだる。これはただ謙虚に振る舞うということではありません。6節以下には、キリスト賛歌と言われるイエス・キリストを賛美する言葉が書かれています。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
 イエスさまは神の子でありながら、人となられた。先週はみんなでクリスマスをお祝いしましたが、クリスマスとは、このことです。神さまが人となられた。そのことについて、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。イエスさまは人としておいでになり、僕として生きられました。へりくだって生きられました。イエスさまを模範として生きる私たちも同じです。イエスさまが生きられたように、私たちも僕として生きる、へりくだって生きるのです。

(むすび)
 クリスマスの翌週となった今日、私たちはイエスさまがどのような方としておいでになったかをこの聖書の箇所から聴きました。主は僕として生きられました。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。私たちの生き方はいつもこれとは反対です。自分の方が優れている。自分が人より上に立つように。そういうことを求めてしまう者です。自分さえよければ良い。人のことには無関心。ますます世の中はそのようになっているのではないでしょうか。私たちもその流れに飲み込まれてはいないでしょうか?
 昨年の10月にも、今日の聖書箇所から説教しました。その時には5節の言葉を中心にお話ししました。5節はこのようなことが書かれています。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
 文語訳の聖書では、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」となっていました。イエス・キリストをその心に迎えた私たちはキリストの心に生きる者でありたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
  この年も神さまの愛と恵みによって歩んできました。感謝します。
 先週はクリスマス、神さまのみ子イエス・キリストのご降誕をみんなでお祝いしました。イエスさまを新たに心にお迎えする方がありますように。
 私たちもイエスさまがこの世に来られ、僕として生きられたこと、へりくだって生きられたことをおぼえ、主に倣う歩みをすることができますように導いてください。そして、イエスさまと共に生きることの喜び、豊かさが伝わりますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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