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【礼拝説教】2022年3月6日「聖書の言葉が実現するため」

聖書―マルコによる福音書14章43~52節
(はじめに)
 説教題を「聖書の言葉が実現するため」としました。これは今回お読みしました聖書箇所の49節にありますイエスさまの言葉です。イエスさまのご生涯は、この言葉の通りでした。つまり、聖書の言葉が実現するため、このことのために歩まれた人生でした。ところで、ここで言われている「聖書の言葉」とは、神さまの救いのご計画と言っても差し支えないと思います。神さまの救いのご計画のために、主は生きられたのです。そして、今、私たちも、聖書の言葉が実現するため、神さまの救いのご計画のために、ここに呼び集められ、教会として歩んでいることをおぼえたいと思います。

(聖書から)
 今回の聖書箇所は、いよいよイエスさまが捕らえられるという場面です。新共同訳聖書の小見出しは「裏切られ、逮捕される」と付けられています。43節をお読みします。
14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
 イエスさまのもとにやって来た人たち、それはイスカリオテのユダ、そして、祭司長、律法学者、長老たちから遣わされた群衆であった、ということです。イスカリオテのユダについて、「十二人の一人であるユダ」とあります。これはイエスさまの最も身近な弟子であった十二人の弟子、その一人であった、ということがここに改めて書かれているということです。イエスさまに最も近い弟子、その弟子がユダヤのサンヘドリン、最高法院、これはユダヤの行政と司法の代表です。そこから遣わされた群衆と一緒にイエスさまのもとにやって来た。それも、この群衆は剣や棒を持っていた、ということです。
 剣や棒を持っていた。武器です。なぜ、武器を持って、イエスさまのもとに来たのか、というと、恐れがあったからだ、と多くの聖書の注解者は語っています。私たちは剣や棒を持ったりはしないと思います。しかし、言葉や態度などを武器にして、相手を攻撃することがあります。恐れがあると、武器を持ち、攻撃してしまうのです。一方、イエスさまはどうだったでしょうか?イエスさまは武器も何も持ちませんでした。イエスさまのことを聖書はこのように語ります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(一ヨハネ4章18節)。イエスさまは完全な愛の方です。
 続く44節以下をお読みします。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
 イスカリオテのユダについて、先ほどは「十二人の一人であるユダ」とありましたが、ここでは「イエスを裏切ろうとしていたユダ」となっています。この言葉から、イスカリオテのユダがイエスさまを裏切ろうとしていたことが分かります。ユダは群衆と事前にこのような合図を決めていた、ということです。それは「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」とありますように、接吻、口づけということです。
 この接吻、口づけというのは、挨拶のことです。ユダヤにおいては、ラビ、ユダヤの教師のことですが、弟子と接吻、口づけを交わして、敬意を表します。ユダはイエスさまに接吻をすることで、この人がイエスさまだ、あなたがたはこの人を「捕まえて、逃がさないように連れて行け」と示したわけです。本来は敬意を表す行為であったのに、それが裏切りを表す行為となってしまったのでした。そして、イエスさまは捕らえられます。ところが、ここで思いがけない事態が起こります。
14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
 この「居合わせた人々のうちのある者」というのは、誰であるかということですが、同じ内容の記事がマタイ、ルカ、ヨハネの福音書にあります。その中のヨハネの記事では、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった」(ヨハネ18章10節)とありますので、イエスさまの弟子の一人であるペトロということになります。彼は剣を持っていた、ということです。剣には剣ということでしょうか。イエスさまを守るために行った行為でしたが、このことについて、マタイではこのようなことが書かれています。「そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」」(マタイ26章52節)。またルカではこのようなことが書かれています。「そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた」(ルカ22章51節)。イエスさまは剣に対して剣ということを否定されました。そればかりか、ペトロが切り落とした大祭司の手下の耳に触れて癒やされた、とあります。主は、剣、つまり、戦うこと、攻撃することでなく、癒やされました。ここから、イエスさまの生き方を教えられます。
14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
 「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていた」。イエスさまは、剣や棒を持ってやって来た人たちを前にして、このように語りました。イエスさまは、剣や棒ではなく、福音を語り続けられました。しかし、イエスさまは捕らえられようとしています。このことについて、「これは聖書の言葉が実現するためである」と言われました。神さまの救いのご計画が実現するためであると言われたのでした。

(むすび)
 この後、逃げてしまった人々の様子が書かれています。
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
 イエスさまと一緒にいた弟子たちは皆、逃げてしまいました。51、52節に書かれている若者、この人については、他の福音書にはこの記事がないために、もしかすると、このマルコによる福音書の記者であるマルコではないかと言われています。はっきりとしたことは分かりませんが、この若者も逃げてしまった、ということです。イエスさまの弟子たちの忘れられない恥ずかしい過去、そして、この若者、マルコ自身のことかもしれませんが、自分の忘れられない恥ずかしい過去であるのに、そのことをなぜ、正直にこの福音書に書いたのでしょうか。
 聖書の言葉が実現するため、というのは、神さまの救いのご計画が実現するため、ということであると言いました。ある牧師先生は、この神さまの救いのご計画について、このように語っています。「神は、人間の救いのためにイエスを罪人らの手に『引き渡す』ことによって、逆に十字架の救いへと私どもを渡されるのである」(白戸清牧師)。
イエスさまを裏切ったのは、この聖書の言葉に書かれているように、イスカリオテのユダだけでなく、弟子たちみんなであったことが分かります。その彼らが後になって知らされたことが、イエスさまの十字架の意味でした。そして、そのことが分かったからこそ、自分たちの忘れられない恥ずかしい過去、つまり、自分たちの罪を告白することができたのではないでしょうか。こんな私のためにイエスさまが十字架にかかって、罪から救ってくださった。イエスさま、感謝します!と罪を告白し、信仰を告白することができたのです。私たちもイエスさまの十字架はこの私のためであった。このことをいつも心におぼえて歩んでいきたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 イエスさまは聖書の言葉が実現するため、すなわち、神さまの救いのご計画が実現するため、捕らえられ、十字架の道へと歩むことになりました。それは私たちを罪から救うためでした。
 イスカリオテのユダだけでなく、他の弟子たちも、主が捕らえられる時には逃げ出してしまいました。また、あの無名の若者が逃げ出した姿は、私たちのようです。主を裏切ってしまったのは、主の弟子たち、そして、私たちです。
 しかし、主はそういう私たちを赦し、罪から救い、新しく生きるために十字架にかかってくださいました。私たちはイエスさまの十字架の出来事をこの私のためであったと信じ、自分の罪を告白し、主にあって歩む者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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