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【礼拝説教】2022年3月20日「過越祭を祝う者」

2022年3月20日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「過越祭を祝う者」コリントの信徒への手紙一5章1~13節

聖書―コリントの信徒への手紙一5章1~13節
(はじめに)
 パウロは人が救われるのは自分の力ではない、と教えました。人が救われるのは自分の力ではなく、神さまによってのことだ、と教えました。そのことについて書いてある聖書の言葉をお読みします(ガラテヤ2章16節)
2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
 人はイエス・キリストを信じることによって義とされる。信じるだけで、神さまから義とされる、正しい者と認められる。これが神さまによって救われるということで、信仰義認と言います。一方、人は自分の行いによって救われるという考えを行為義認と言います。パウロという人は一生懸命、自分の力で正しいことを行って、神さまから義と認められようと励んできた人でした。しかし、どんなに励んでも、人間はどこまでも不完全で、罪ある者であることを知らされ、聖書が本当に教えてきたのは、信仰義認、信仰によって救われる、神さまのみ子イエスさまの十字架による愛によって救われることなのだ、と語ったのです。
 ところが、この信仰義認を自分に都合のいいように理解する人たちが出てきました。それは、私はイエスさまを信じた。信じることによって救われた。だから、自分勝手に生きていい。罪を犯しても、どうせイエスさまが赦してくれるのだから、何をしてもいい。私たちは自由に生きる者となったのだ!そのように考える人たちが出てきたのです。
 今日お読みしました聖書の1節に出てくる、自分の父親の妻というのは、おそらく、自分の実の母親のことではなく、母親が亡くなったか何かで、その後に父親が結婚した女性のことだと思われますが、その女性と一緒になった、という大変ショッキングな内容が書かれていましたが、これも今お話しした、自分は神さまに赦されているから、自由に何でも好きなことをしていいのだ、という人の一つの実例であると思います。これだけでなく、いろいろな、世の中でも考えられないような、驚くような生き方、生活をしていた人たち、1節には「あなたがたの間に・・・」とありますから、パウロが手紙を書き送ったコリントの教会の中に、そういう人たちがいたようです。そのことに大変心を痛めたパウロは、信仰義認、信じることで救われる、というのは、そういうことではないのだ、と語っているのが、今日お読みした内容です。

(聖書から)
 2節以下、パウロは厳しい言葉をコリントの教会の人たちに語っています。
5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
 ここには、「そんなことをした者を既に裁いてしまっています」とか、「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです」とありますが、これは具体的には、教会の戒規(教会の戒めと規則)によって、そのような人たちを処分した、教会から追放した、ということです。厳しい対応をしたと思われるかもしれません。しかし、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」というのは、その人が罪から離れることができるように、反省(自分を省みる)の時、悔い改め(神さまに立ち帰る)の時を持つように促した、ということなのです。
 私の知り合いの牧師先生は、以前、南米の教会で宣教師として働きをしていました。その先生の教会の教会員で議員さんがいたそうです。ところが、この議員さんは収賄の罪で逮捕されてしまいました。その教会では、その教会員に対して、厳しい対応をしました。一定期間、礼拝に出席することも、主の晩餐を受けることもさせないことにしました。それはその期間、その教会員が自分の行ったことを反省し、悔い改めさせるためでした。その期間を終えた後、教会はその教会員を再び受け入れたそうです。教会のみんなもよく帰ってきたね、戻ってきたね、と喜んで受け入れたそうです。自分の罪を認める。そして、悔い改めたなら受け入れる。このようにして、教会が罪に対して、真摯に向き合っていくことは大事なことです。罪に陥ってしまったなら、悔い改めて、主に立ち帰るように促し、励ましていくのです。
5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
 さて、6節以下をお読みしましたが、このコリントの教会では、罪の問題を曖昧にしてしまうようなことがあったようです。そのことをパウロはパン種の話を例に挙げて、語っています。パン種、イースト菌のことです。これが入っていると、膨らんで、ふわふわのパンができます。しかし、ここでは、パン種を入れないパンの話です。イスラエルに旅行に行かれた方がパン種を入れないパンというものをお土産に買ってきたことがありました。ご覧になった方、食べたことのある方、この中にもおいでになるかもしれませんが、それはクラッカーのようなものです。
 パン種を入れないパン。それはユダヤの過越祭で食べられるものです。その由来は出エジプト記に書かれています。神さまの民とされたイスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しみにありました。その民をエジプトから解放し、約束の地に導くために、神さまはモーセを遣わされました。しかし、エジプトの王ファラオはイスラエルの民を解放することをなかなか許してくれませんでした。モーセは神さまに命じられ、エジプトの国中に災いを下して、イスラエルの民の解放を認めさせようとしますが、ファラオはなかなか許してくれません。そこで神さまは最後の災いとして、エジプトのすべての初子、最初に生まれた男の子と雄の家畜を殺すようにされました。その災いが下される晩、イスラエルの人たちの家では、過越の小羊が屠られ、その血が家の入り口の二本の柱と鴨居に塗られました。その血が神さまに従っていることの目印となって、主の使いはその血の塗られた家は何もせずに過ぎ越して、エジプト人の初子だけが殺されました。このことによってついに彼らはエジプトを出ることができました。このことを記念して、過越の小羊を殺してその血を家の戸口に塗り、その小羊の肉を家族で食べる過越祭が祝われるようになりました。エジプトで奴隷にあった民が神さまによって解放されたことを祝う祭となりました。そして、過越祭と共に祝われるのが、除酵祭、パン種を入れないパンで祝う祭です。イスラエルの民はエジプトから脱出するために、急がなければならず、パン種を入れないパンを作って食べました。その後、パン種を入れない、取り除く、ということが、罪や悪いものを入れない、取り除くという意味を持つようになりました。パウロはそこから語っています。あなたがたの中のパン種、つまり、罪を、悪いものを取り除きなさい、と言っているのです。

(むすび)
 今日の箇所の7節をもう一度、ご覧ください。「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」。パン種、つまり、あなたがたの罪を取り除きなさい、と言われています。しかし、それに続いて、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」とも書かれています。パン種を取り除きなさい、と言っておきながら、あなたがたはパン種の入っていない者だ、と言われているのは不思議です。その理由は、次の言葉から分かります。「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」。イエスさまがあなたがたの中のパン種、つまり、罪を取り除くために過越の小羊として屠られた、これは十字架にかかってくださった、ということです。だから、あなたがたはイエスさまによって、罪を取り除かれた者として生きていきなさい、と言われているのです。
 私たちはイエスさまを信じることによって、自由にされました。その自由とは私たちを支配していた、私たちを捕らえていた罪からの自由ということです。私たちは、罪から自由にされて、イエスさまと共に、神さまが示しておられる善いことのために生きることができるようになったのです。この「イエスさまと共に」ということが大事です。自分ではなかなか善いこと、愛のために、平和のために生きようとしても、自分の中の弱さによって、すぐに罪に負けてしまったり、悪い思いを抱いてしまったりする私たちですが、そういう私たちといつもイエスさまは共におられるのです。最初にお読みしましたガラテヤの信徒への手紙2章、この章の20節にはこのようなことも書いてありました。イエスさまを信じた者について書かれています。
2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 
「キリストがわたしの内に生きておられる」。だから、安心して、イエスさまに助けを求めましょう。支えていただきましょう。イエスさまが私たちを導いてくださいます。祈りつつ歩みましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主は私たちの罪を取り除いてくださいました。パウロは「あなたがたはパン種の入っていない者」と語っています。私たちはイエス・キリストを信じることによって、罪に支配されていない者とされました。感謝します。
 罪から自由にされた私たちは、今や主の愛と恵みに生きる者とされました。しかし、それは自分の力によるのではありません。イエスさまが共に歩んでくださっていることを信じて、イエスさまの助けによって新しく生きる者とされました。私たちをどうぞ主が導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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