「救いを受けた者として生きる」ペトロの手紙一1章3~12節 2026年5月17日
(はじめに)
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)。今日お読みした聖書の言葉は、このような言葉から始まっています。神さまがほめたたえられますように。神さまが賛美されますように、ということです。賛美と言いましたが、今日、私たちは教会に集い、神さまを礼拝しています。礼拝というのは、皆さんのお手元にあります週報の礼拝のプログラムをご覧いただきますと、いろいろな内容があることが分かります。礼拝の今の時間は、説教です。説教というのは、聖書の言葉の説き明かしです。教会は聖書を神さまの言葉と信じて読みますから、神さまの言葉をお話しすることです。賛美というのは、賛美歌を歌う、神さまを賛美する歌を歌うことです。神さまは、私たちに命を与えてくださいました。神さまは、私たちを愛しておられ、生かしておられます。その神さまに対して、私たちは、神さま、私たちに命を与えてくださり、愛してくださり、生きていくために必要なものを備えてくださり、感謝します、ありがとうございます、と心からの感謝を言葉にして、歌にして表す。それが賛美ということです。神さまを賛美するのは、日曜日だけではありません。日々の生活で神さまを賛美するのです。この新しい週も一日、一日、神さまを賛美しながら歩んでまいりたいと思います。
(聖書から)
さて、もう一度、3、4節をお読みします。
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。
お話ししましたように、神さまが賛美されますように、という言葉から始まっています。そして、次のような言葉が続きます。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。
「わたしたちを新たに生まれさせ」とあります。新しく生まれる。これはどういうことでしょうか。イエスさまのところに、ある夜、ニコデモという人がやって来ました。この人はファリサイ派でユダヤの議員でした。ファリサイ派の人というのは、聖書、神さまの言葉を熱心に学んでいる人ですから、このニコデモという人も聖書に詳しかったと思います。そういう人が、ある夜、イエスさまのもとを訪ねてきました。そして、ニコデモは、このようなことを言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハネ3章2節)。
ニコデモは、イエスさまのことを「ラビ」と呼んでいます。ユダヤの教師という意味です。イエスさまが人々に神さまのことをお話ししていること、病や人生の様々な問題で苦しんでいる人たちを癒し、助けていることなどを知っていた。この方には、何かがある、と感じるものがあったのだと思います。この人はユダヤの教師、私たちに本当に大事なことを教えてくださる。そう思ってイエスさまのもとに来たのでしょう。イエスさまはニコデモにこのようなことを言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。今日の聖書の言葉に出てきた言葉がここでも言われています。新しく生まれる。新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
今日の聖書の個所に戻ります。そこには、新しく生まれるということについて、このように書いてありました。「わたしたちを新たに生まれさせ」。ここで言われていることは、神さまが、私たちを新しく生まれさせてくださるということです。先ほどの話に出てきたニコデモという人は、賢い人であったと思います。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。イエスさまの言われた言葉を聞いて、この方は、私のことを知っておられる。そう思ったのではないでしょうか。ニコデモは神さまを信じてはいましたが、生きていても何か喜びがない。神さまを賛美する、そういう気持ちも出てこない。どうしてなのだろう・・・。何か心に虚しさを感じていたかもしれません。そういうニコデモにイエスさまは言われたのです。「新しく生まれなければ・・・」。ニコデモは、イエスさまにこのようなことを言いました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハネ3章4節)。もう私もこの人生を長いこと生きてきました。今さら新しく生まれると言われましても、どうすることもできないのです。ニコデモの言うように、人は、自分の努力、経験などで、新しく生まれることはできないのです。「わたしたちを新たに生まれさせ」とあるように、自分ではなく、神さまが、私たちを新しく生まれさせてくださるのです。
5節をお読みします。
1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。
ここで注目したいことは、「神の力により、信仰によって守られています」ということです。神さまの力、そして、信仰です。私たちが新しく生まれることができるのは、神さまの力によることです。そして、信仰によることです。神さまの力によって、新しく生まれる。これは皆さん、理解できると思います。しかし、信仰によって、新しく生まれる、というと、いかがでしょうか?と言いますのは、信仰、このことについては、私たちそれぞれ理解するところが違うのではないでしょうか?多くの方々が考える信仰というのは、信心、信じる心のことだと思います。自分が信じる。信じる心が強くなることが大事。自分の信じる心が強くなること、それが信仰深いとか、信仰的と考えるのではないでしょうか。しかし、聖書が教える信仰とは、信心、信じる心ということではないのです。
イエスさまはある時、信仰について、このようなことを言われました(マタイ17章19、20節)。
17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
イエスさまの弟子たちは、自分たちが病気の子供を癒すことができなかったことで、イエスさまにどうして私たちには癒せなかったのでしょうか?と尋ねました。その問いを受けて、イエスさまはこのように言われたのです。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」。
あなたがたは「信仰が薄い」とイエスさまは言われました。いいえ弟子たちは、病気の子供を前にして、心から、熱心に祈ったと思うのです。それなのに、イエスさまは、その弟子たちのことを「信仰が薄い」と言われる。どういうことでしょうか?この後、イエスさまは、あなたがたは「からし種一粒ほどの信仰」があればよい、と言われました。何か矛盾しているようなことを言われたようにも思えます。
先ほど、信仰とは、自分の信心、信じる心ではないと言いました。信仰、それは、神さまを信頼することです。からし種というのは、本当に小さいものです。からし種一粒、それは一ミリほどの小さい粒です。それ程に小さくてもいいから、あなたがたは、自分の信心、自分の祈りの力を頼りにするのではなく、神さまを信頼しなさいと言われたのです。ですから、今日の聖書の言葉にありました「神の力により、信仰によって守られています」というのは、神さまの力を信頼しなさい。神さまが守っておられますから、ということです。
6節からお読みします。
1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
試練ということが出てきました。私たちの人生には、試練があります。試練はできることなら避けたいものです。しかし、そういうわけにはいきません。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とあります。私たちは、試練に遭って、悩むのです。ここには、試練について、それをどのように受け止めたらよいのか、考えたらよいのか、ということが教えられています。
「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。ここには、私たちの信仰が、試練というテストを受けて、本物にされていく、ということが言われています。信仰とは、信頼、神さまに対する信頼です。それは試練を通して、本物にされていくというのです。
この前、ある方とお話ししていましたら、その方が、「病気になることは本当に嫌なことです。でも病気を経験して、大事なことを教えられました」と言われました。そして、続いてこう言われたのです。「自分は若い時から、元気で、健康で、誰にも頼らないで、何でも自分でできると自負して生きてきました。けれども大病を患ってしまい、自分ではできないことが幾つも出てきたのです。そういう自分に失望して、落ち込んでいましたが、少しずつ、その自分にできないこと、自分の弱さ、自分の欠けを受け入れていった時、素直になることができたのです。人に助けて、と言えるようになったのです」と言われました。
神さまに対する信仰、信頼ということでも同じことが言えるのではないかと思います。試練に遭う時、私たちは自分の弱さ、無力さに向き合わされます。しかし、その時、私たちは、率直に神さまに助けを求めるようになるのではないでしょうか。その信仰、信頼を神さまは受け止めてくださり、私たちを新しく生まれる、新しい人生へと導いてくださるのです。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。今日お読みした聖書の言葉は、ペトロの手紙です。ペトロが書いたものと伝統的に理解されてきた文書です。ペトロのことで言うなら、「キリストを見たことがない」という言葉は当てはまりません。ペトロは、イエスさまの直弟子として、イエスさまと一緒に歩んできました。直接、イエスさまの言葉を聞き、イエスさまのなさった数々のみわざを見てきました。そのペトロがこういうことを言っているのです。
これは、イエスさまが復活され、昇天された後の時代の人たちに向けて書いたことです。ここには、ペトロの驚き、感動が表されていると思います。彼らは直接、イエスさまに会ったことがないのに、なぜ、イエスさまを愛しているのか?イエスさまを見なくても信じているのか?イエスさまを信じる喜びで満ちているのか?ペトロは、見ないで信じる人たちを通して、神さまは見えないけれども、確かに生きておられる。私たちの間に生きて働いておられる。そのことを確信させられていったのではないでしょうか。
(むすび)
9節には、「それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」とありました。キリストを見ないのに、キリストを愛している、キリストを信じている、キリストの喜びに満ちているのはなぜかというと、それは、魂の救いを受けているからだというのです。これは、別の言い方をすると、イエスさまを愛すること、イエスさまを信じること、イエスさまを喜ぶこと、それは、私たちが主に救われたことの現れ、証しということです。
私たちは、今日も一緒に主を礼拝しています。主を賛美しています。なぜ、私たちは礼拝しているのでしょうか?なぜ、私たちは賛美しているのでしょうか?それは、私たちが主によって救われたことの現れ、証しなのです。私たちは、これからも、主を愛する教会、主を信じる教会、主を喜ぶ教会として歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちは、自分で自分を新しくすることはできません。自分の弱さ、自分の欠けを受け入れ、本当に神さまを信頼し、神さまに自分の身を委ねて生きる者とさせてくださいますように。
あなたは、私たちに見ないで信じる信仰を与えてくださいました。私たちを、これからも日々、主に出会い、主を愛し、主を信じ、主を喜ぶ者へと導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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