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【礼拝説教】2022年4月3日「主イエスの言葉を思い出して」

聖書―ルカによる福音書22章54~62節
(はじめに)
 まもなく受難週、そして、イースター(復活祭)を迎えます。イースターはクリスマスと並ぶキリスト教会にとっては大切な記念日です。ただクリスマスと違って、毎年、イースターの日は変わります。それはなぜかというと、イースター、また受難週は私たちが使用している太陽暦ではなく、太陰暦に基づいているため、毎年、日付が変わるのです。移動祝日という言い方もされます。今年の受難週は4月10~16日、イースターは4月17日です。イエスさまが私たちを罪から救うために十字架におかかりになったこと、十字架にかかり死なれましたが、三日目に復活されたことを改めて、私たちの心に刻んでいきたいと思います。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書箇所はルカによる福音書22章54~62節です。この箇所に書かれている内容については、3月23日の祈祷会でもマルコによる福音書の聖書箇所から学びました(マルコ14章66~72節)。イエスさまの弟子の一人であるペトロが、イエスさまのことを三度、知らないと否定した、という内容です。
 今回はその箇所をルカによる福音書の聖書箇所から読みました。読み比べていただくと、分かりますが、同じ内容ですが、じっくり読んでいきますと、違いがあることが分かります。その違いはなぜかというと、視点の違いです。視点の違いというと、例えば、教会で毎月発行されている女性会の会報があります。「シオン」という会報です。受付に置いてありますので、どうぞ、ご自由にお取りくださり、お読みください。女性会の人たちの証しが書かれています。読んでいただくとお分かりになると思いますが、視点の違いがあります。書いておられる人たちはみんなイエスさまを救い主と信じている。その点では、同じですが、イエスさまについて、信仰について、それぞれの視点から書いています。それと同じように、マルコによる福音書は、マルコという人の視点から書かれ、ルカによる福音書は、ルカという人の視点から書かれています。
 先日の執事会での話し合いでは、教会学校の再開を執事のみんなが願っていることがよく分かりました。教会学校、聖書を一緒に学び合うものです。そのことによって、いろいろな視点から、聖書が読まれ、聴かれていることが分かります。自分だけの聖書の読み方、イエスさまについての理解に留まらず、それぞれの人たちの聖書の読み方、イエスさまについての理解を教えられ、信仰の視野が広がっていきます。
 古い話ですが、常盤台教会の初代牧師の松村秀一先生のお連れ合いの松村あき子先生、この先生も神学校で学ばれた方ですが、アメリカの神学校に留学されていた時の話です。ある牧師家庭のお宅にお世話になっていたそうですが、毎朝、牧師夫妻と朝食前に聖書を読み、祈る時を持っていたそうです。聖書を読んだ後、牧師先生は、まだ学生だったあき子先生に、その聖書から受けたことをお話ししてください、と言われたそうです。そして、あき子先生が聖書から受けたことを話すと、メモ帳を開いて、書き留められたそうです。自分はまだ若く、未熟な者で、聖書もそれほど詳しくないのに、そんな自分の話を真剣に聴いて、メモまでされて・・・、と驚いたそうですが、私たちもそのように、一人一人が聖書に、神さまの言葉に真摯に向き合い、お互いに聖書を学び合う時を再開したいと思います。
 今日の聖書の話に戻ります。イエスさまが捕らえられ、大祭司の家に連れて行かれた時、ペトロはどうしていたかというと、このようなことが書いてありました。「ペトロは遠く離れて従った」(54節)。私はこの言葉は不思議な言葉だと思いました。遠く離れて従う。私たちの信仰の歩みもこのようなことがあるかもしれません。遠く離れて従う。付かず離れず、と言ったらいいでしょうか?
 そして、遠く離れて従う。そのことは、この後のペトロの言葉から分かってきます。55節からお読みします。
22:55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。22:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。22:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
 ペトロは、ある女中から、「この人も一緒にいました」(56節)、つまり、ペトロがイエスさまと一緒にいた、と言われたのです。すると、ペトロは「わたしはあの人を知らない」(57節)とそのことを否定しています。今度は他の人がペトロに「お前もあの連中の仲間だ」(58節)、イエスさまと弟子たちの仲間だ、と言われました。すると、ペトロは、これも「いや、そうではない」(同)と否定しています。一時間ほど経って、別の人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」(59節)と言ったところ、これについても「あなたの言うことは分からない」(60節)と否定しました。
 ペトロは、イエスさまが捕らえられたことで、身の危険を感じ、イエスさまと一緒にいたこと、イエスさまの仲間、弟子であるということを否定してしまったのでしょうか?ペトロはイエスさまを愛し、イエスさまの弟子であることを誇りに思っているような人でした。そういうペトロが、私は知らない、そうではない、などと言ってしまったのです。
 ペトロが三度目の否定、イエスさまを知らないと言ったその直後に鶏が鳴いたことが書かれています。この鶏が鳴いた、というのは、ペトロにとってはとても重要なことでした。そのことは次にお読みします聖書の言葉から分かります(31~34節)。
22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
 この「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」というのは、サタン、悪魔とも言いますが、イエスさまは、サタンがペトロを試みに遭わせると言っておられるのです。しかし、ペトロはイエスさまが言っておられることの意味を分かっていたのか分かりませんが、このようにイエスさまに対して言っています。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。ペトロは、私はどんなことがあっても、イエスさま、あなたから離れません!私はあなたと一緒に死んでもかまいません!と言っているようです。ところが、イエスさまはそういう強い決意、熱い思いを持ったペトロにこのように言っておられます。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。
 イエスさまが以前、言われたとおり、ペトロはイエスさまのことを知らないと言ってしまいました。ペトロは、おそらく自分はイエスさまのことを決して知らないなどとは言わない。どこまでもついて行きます!と自分の心に誓ってもいたと思います。ところが、イエスさまが捕らえられた。恐れを抱いたペトロは三度もイエスさまのことを知らない、と言ってしまったのです。

(むすび)
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。22:62 そして外に出て、激しく泣いた。
 今日お読みした聖書箇所の最後の箇所です。ここには、ルカによる福音書だけにしか書かれていない言葉があります。それは「主は振り向いてペトロを見つめられた」という言葉です。他の福音書の記者たちは、このことに気づいていなかったのでしょうか?そのことは分かりませんが、ルカによる福音書の記者であるルカは「主は振り向いてペトロを見つめられた」、このことを大事なこととして書いています。
 皆さんは、この言葉を読んで、どのようなことを思われたでしょうか?もしかすると、イエスさまは、「それ見たことか!どんなに強い決心をしても私を知らないと言ってしまったではないか!」と裁きの目を持って、ペトロを見つめられた。あるいはペトロをにらまれた、と受け取られた方があるかもしれません。私は、このイエスさまがペトロを見つめられた、ということから、イエスさまがペトロに言われた言葉を思い起こさせられます。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。
 イエスさまはペトロをにらみつけたのではない。裁きの目で見つめられたのではない。そのように私は思うのです。むしろ、この言葉にありますように、私はあなたのために祈っているよ。あなたが立ち直る日が来るように祈っているよ。どんなペトロであっても、イエスさまは見捨てない。イエスさまはペトロを愛し続けておられ、祈り続けておられる。イエスさまがペトロを見つめた目、それは裁きの目ではなく、愛のまなざしであり、赦しのまなざしである。私はそう信じています。
 先週の木曜日に私たちの名誉牧師でありました児玉振作先生の葬儀を行いました。葬儀の中で、遺族代表挨拶をご長男の健さんがされましたが、そこで話された言葉がとても心に残りました。児玉先生はお連れ合いの時子夫人を亡くされて以来、徳丸のご自宅でお一人生活されていましたが、お年を召されて、足腰も弱り、ご自宅で転倒するようなことがないだろうかと心配して、ご自宅での先生の様子が分かるようにカメラを取り付けられたそうです。すると、そこには、日々、先生が祈られている様子が映っていて、家族のことを一人一人、心を込めて祈っておられた、ということでした。
 祈られている恵み、喜び。愛されている恵み、喜び。赦されている恵み、喜び。それが私たちを立ち直らせるのです。そして、立ち直らされた人は、今度は誰かを立ち直らせるのです。私たちもペトロのように弱さをおぼえる者ですが、イエスさまの祈り、愛、赦しに生かされていることをおぼえたいと思います。私たちも祈り、愛、赦しに生きる者でありたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 ペトロは自分の信仰がもろく崩れ去る経験をしました。しかし、その時、主の愛のまなざしを知り、主がこんな私のために祈っておられる。私を愛し、赦しておられる。そのことを思い起こし、涙しました。
 私たちもペトロのように弱さをおぼえる者ですが、私たちのためにも主は祈ってくださること、その愛、赦しを信じ、立ち上がっていくことができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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