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教会はキリストの体  エフェソの信徒への手紙 1章15~23節 2023/10/15/SUN.

「教会はキリストの体」エフェソの信徒への手紙 1章15~23節 2023/10/15/SUN. 赤塚教会礼拝説教(朝・夕)

聖書―エフェソの信徒への手紙1章15~23節
(はじめに)
 お読みしました聖書の言葉は、このような言葉から始まります。
1:15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、
「こういうわけで」というのは、その前の節に書かれていること、エフェソの信徒への手紙1章1~14節に書かれていることを受けて言っています。先月、ここから語らせていただきました。ここには、一言で言いますと、神さまの恵みが語られていました。私たちに与えられた神さまの恵みです。この恵みが、あなたがたエフェソの教会の一人一人に、そして、この私パウロに与えられている。そのことを思い出して、パウロはこの手紙を語るのです。
毎週の礼拝も、神さまの恵みを思い出す、思い起こす時です。先週、自分はどのように歩んできただろうか?振り返ってみてください。私は、一人で歩んできたのではない。すっかり忘れていたかもしれない、まったく意識していなかったかもしれないけれども、主は、この私と共に歩んでくださった。そのことを思い起こしていくのです。

(聖書から)
 「わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き」とあります。パウロは、エフェソの教会の人たちがイエスさまを信じていること、そして、すべての聖なる者たちを愛していることを聞いていました。エフェソの教会の人たちのことがここには書かれていますが、私たちがこの言葉を読む時、自分の連なっている教会のことを考えたらよいと思います。この赤塚バプテスト教会の人たちはイエスさまを信じている。そして、すべての聖なる者たちを愛している。
 しかし、私たちはお互いにこのように思うかもしれません。果たして、私は本当にイエスさまを信じているだろうか。果たして、私は本当にすべての聖なる者たちを愛しているだろうか。自問自答していくと、そう思わざるをえません。しかし、この後、パウロはこのように語ります。
1:16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
 パウロは、祈りのたびに、エフェソの教会の一人一人のことを思い起こしていました。この人たちはイエスさまを信じている。この人たちはすべての聖なる者たちを愛している。なぜ、パウロは、そのように言うことができたのでしょうか。ここに「絶えず感謝しています」とあります。パウロは誰に感謝していたのでしょうか?神さまに感謝していたのです。神さまが、エフェソの教会の人たちがイエスさまを信じる者とされたこと、エフェソの教会の人たちがすべての聖なる者たちを愛する者とされたこと、そのことを絶えず感謝していたのです。
 もしかすると、この箇所を読んで、パウロはあまりにもエフェソの教会を買いかぶりすぎていないか?と思われるかもしれません。いいえ、買いかぶっていたわけではありません。神さまは、エフェソの教会に臨んでくださり、彼らがイエスさまを信じる者となるように、すべての聖なる者たちを愛する者となるように、導いてくださる。そのことをパウロは信じていたのです。信じること、愛すること、これは人間のわざ、人間の力ではないのです。神さまが私たち人間を信じる者へと、愛する者へと導いてくださるのです。そのことを感謝している。それが、ここに書かれていることなのです。
 この後も、神さまが、エフェソの教会を、そして、私たちをそのような者としてくださるように、とパウロの祈りが続けられています。
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、1:18 心の目を開いてくださるように。
 ここに「心の目を開いてくださるように」とあります。新しく訳された聖書協会共同訳では、「心の目を開いてくださるように」という言葉が「心の目が照らされ」となっています。心の目が照らされる。これは、どういうことでしょうか?暗い部屋、例えば、停電になってしまった時に、私たちは周りが何も見えずにおろおろしてしまいます。そういう時、懐中電灯があると助かります。懐中電灯の光に照らされて、周りが見えるようになる。心の目が照らされる、というのは、それと同じです。私たちの人生の歩み、先が見えない。どのように歩んで行けばよいのか分からない。まるで真っ暗なように思える。しかし、そこに光が照らされる。神さまの光が照らされる。
 旧約聖書・詩編119編105節にこのような言葉があります。
119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
 「あなたの御言葉」というのは、神さまの言葉のことです。神さまの言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯とあります。神さまの光、それは神さまの言葉です。神さまの光が照らされる時、私たちは見えるようになるのです。私たちはどのように歩んで行けばよいのでしょうか。私たちの人生の道を神さまの光が、神さまの言葉が照らしてくださいます。
 17節に「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように」とありました。「知恵と啓示との霊」。これは聖霊と言ってもよいと思います。聖書の言葉を読む時、私たちは聖霊の助けによってそれを理解することができるように導かれます。そして、聖書の言葉から、私たちは「神を深く知ることができるように」なるのです。
 私たちは、神さまを信じて間もないころは、まだ神さまという方がどのような方か、そのほんの一部しか知りませんでした。しかし、そこに留まらないで、聖書を読み進めていくなら、祈り続けていくなら、少しずつでも神さまという方を、神さまの恵みを知るようになるのです。だから、パウロは祈っているのです。神さまを深く知ることができるように。神さまの恵みをもっともっと深く知ることができるように。
 18節の後半からお読みします。
1:18そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。1:19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。1:20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、1:21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
 神さまの与えてくださる希望、神さまの力、そのことを悟らせてくださるように、とパウロは祈ります。神さまの与える希望について、「どれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」、神さまの力について、「どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」とありました。もうずいぶん前に出版されたものですが、『あなたの神は小さすぎる』(J.B.フィリップス著)という本がありました。あなたの神さまは小さすぎる。それは、あなたは神さまのことを過小評価していませんか?ということです。神さまは私たちが考えるよりもはるかに大きな方です、私たちの思いを超えた方です、とこの本の著者は言っているのです。
 牧師の間でよく聞く話ですが、いろいろと大変なことが起こったら、牧師に連絡して、「今はいろいろと大変な状況にあるので、それが解決するまで教会をお休みさせてください」。このように言われる方が多い、というのです。しかし、むしろその大変な状況の時にこそ、私たちは一緒に神さまに祈っていきたいと思うのです。一緒に神さまの言葉を聴いていきたいと思うのです。そして、一緒に神さまの助け、神さまの守りを待ち望んでいきたいと思うのです。

(むすび)
 今日の最後の言葉をお読みします。
1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
 神さまは、キリストを教会にお与えになった、とあります。教会にキリストはおられるのです。私は、ある著名な牧師先生の話を思い出します。この牧師先生が、いろいろな教会の人たちと教会の現状について話をしていた時のことです。ある人は「私の教会には男性が少ないのです。男性が増えるためにはどうしたらよいのでしょうか?」と言われました。またある人は「私の教会には若い人が少ないのです。若い人が増えるためにはどうしたらよいのでしょうか?」と言われました。牧師先生はこの人たちに何と答えたかというと、「あなたの教会にイエス・キリストはおられますか?」と答えられたそうです。おそらく、この牧師先生は、お話しした人たちが自分の教会の課題のことで頭がいっぱいになり、思い悩み、悲観的になってしまい、本当に頼るべき方を見失っている様子を知って、こう言われたのだと思います。皆さんはどうでしょうか。「あなたの教会にイエス・キリストはおられますか?」もちろん、皆さんは、「私の教会にイエスさまはおられます!」と答えるでしょう。福音を宣べ伝えること、イエスさまを信じること、それは、人間のわざ、人間の力によるのではありません。イエスさまがなさることです。この教会に主はおられる。主は私たちと共におられる。このことをいつも思っていましょう。もう一度、今日の聖書の言葉をお読みします。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
  私たちは、目の前の様々な出来事によって、私たちと共におられる主を忘れ、見失ってしまいます。しかし、神さまは、教会にキリストをお与えになりました。この教会に主はおられます。イエス・キリストは、私たちの主、教会の主です。今日も、明日も、主が私たちと共に歩んでくださいますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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