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【礼拝説教】2022年6月19日「神の前にとどまる」

聖書―コリントの信徒への手紙一7章17~24節
(はじめに)
 使徒パウロがコリントの教会に書き送った手紙から、私たちは今日も語りかけを聴きます。前回、このコリントの信徒への手紙一からお話しした時、7章6節にこのような言葉がありました。
7:6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。
 この7章は、具体的な生活についての勧めですが、「わたしは、そうしても差し支えない」と言っています。曖昧なことを言っているようにも思えますが、この言葉から分かることは、あなたがたは私の言ったとおりに絶対にそうするべき、とは言っていない、ということです。パウロが言いたかったことは、あなたがたは、私の言うとおりにしなさい、というのではなく、あなたがたは、それぞれが自分自身で神さまの言葉を聴いて、自分自身でどうするのか考えて歩むように、ということを言っているのです。
 このようにパウロはコリントの教会の人たちのことを自立した一人の人間、信仰者として尊重して語っています。私たちは神さまによって罪から救われました。その救われた人生をどう生きるのか。そのことが一人一人に委ねられているのです。聖書というのは、正典、カノンと言いますが、これは基準という意味です。聖書は私たち、神さまの救いを受けた者の生活の基準、生きる基準が書かれている書物です。そのことをこの聖書の言葉を聴きながら、自分で判断し、決断し、歩んでいくのです。

(聖書から)
 さて、今日は7章17節からの聖書の言葉から聴いていきますが、17節にはこのようなことが書かれています。
7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
 ここに「おのおの主から分け与えられた分に応じ」とあります。私たちはそれぞれに神さまから与えられた分がある、とあります。このことで思い起こす聖書の箇所がタラントンの譬です(マタイではタラントンの譬、ルカではムナの譬。タラントン、ムナは貨幣の単位のこと)。マタイによる福音書では25章にその譬が書かれています(マタイ25章14~30節)。ある人が自分の僕にそれぞれ五タラントン、二タラントン、一タラントンを預けて旅に出た、という譬話です。五タラントン預けられた人、二タラントン預けられた人はそれを用いて商売をして、五タラントン預けられた人はさらに五タラントン、二タラントン預けられた人はさらに二タラントンもうけました。ところが一タラントン預けられた人はどうだったかというと、それを土の中に埋めてしまった。つまり、用いることをしなかった、ということです。
 タラントンという貨幣の単位ですが、タレントという言葉はよく聞いたことがあると思います。テレビなどを観ていると、タレントさんがたくさん出ていますね。タレントの語源がタラントンです。タレントというのは才能、能力という意味です。主人は僕たちに、それぞれの能力に応じてタラントンを預けました。けれども、一タラントン預けられた人は二タラントン預けられた人、五タラントン預けられた人と自分を比べてしまったのでしょうか?また預けてくれた主人のことを恐れた。恐れた、というのは、信頼しなかった、ということです。そういう理由で自分に預けられたものを用いることをしなかったのです。この譬から、人と自分を比べないこと、自分に与えられた人生を精一杯生きること、この人生を与えてくださった神さまを信頼して生きること、そういったことを教えられます。
 今日の箇所に戻ります。人それぞれに分け与えられた分があります、人生があります。ここではこういうことも書いてありました。「それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」。神さまに召された時の身分のままで歩むように、とはどういうことでしょうか。
 18、19節には、割礼のことが書かれています。21節からは、奴隷のことが書かれています。割礼というのは、ユダヤ人であることの証明です。ユダヤの男性は割礼を受けました。割礼を受けた人はユダヤ人、割礼を受けていない人はユダヤ人ではない異邦人です。このコリントの教会の中には、ユダヤ人やユダヤ人ではない人がいました。割礼を受けた、受けないという話が出ているということは、おそらくユダヤ人のクリスチャンの人がユダヤ人ではないクリスチャンに、あなたたちは割礼を受けなければ、正式なクリスチャンではない、と言ったりしたのでしょう。そのことでユダヤ人ではないクリスチャンが気にして、自分は正式なクリスチャンではないのか?割礼を受けなければならないのか?と悩んだのでしょう。
 「それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」。パウロは、18節に書いてあるように、割礼を受けていない人は受けなくてもよい。割礼を受けた人はそのままでよい、と言いました。そして、大切なことはこのことだと言いました。19節をお読みします。
7:19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
 割礼を受けているかいないかが信仰生活において、重要なことではない。それよりも神さまの掟、神さまの言葉を守ることが大切なことです、と答えています。神さまの前には、ユダヤ人でも、ユダヤ人でなくても、何の区別も、差別もない、と言っているのです。
 次に、奴隷のことが話題になっています。21節をお読みします。
7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
 この「むしろそのままでいなさい」という言葉は議論のあるところです。奴隷が自由の身になることができても、奴隷のままでいなさい、と言っているようですが、別の訳では、このようになっています。「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」(口語訳)。口語訳聖書では反対の意味で訳されています。自由の身になることができるのなら、自由になったらよい。しかし、この「むしろそのままでいなさい」という言葉はもっと直訳的に訳すなら、「むしろ用いるがよい」(田川建三訳)、「むしろ〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい」(岩波訳)となります。岩波訳は「用いなさい」だけだと意味が分からないために、補足説明を入れて「〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい」と訳しています。つまり、ここで言われていることは奴隷が自由になったとしても、またそのままでいても、神さまの召し、神さまが私たちを救い、ご自分の働きのために召してくださったこと、このことを大切にするように、と言ったのです。 
 奴隷ということでは、パウロはさらにこのようなことも言っています。
7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。7:23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。
 奴隷の話から、キリストの奴隷の話になっています。ここで言われていることは、私たちは人の奴隷になってはいけない、ということです。人の奴隷というと、私たちは人を自分の奴隷にしようとしたり、自分が人の奴隷になったりすることがあります。言い換えますと、人を支配しようとしたり、人に支配されたりします。しかし、私たちの人間関係はそういうものであってはならないというのです。私たちはみんな主によって自由にされた者であり、主の奴隷なのです。
「主によって自由にされた者であり、主の奴隷」というと、矛盾しているような言葉ですが、私たちはイエス・キリストの十字架の救いによって、罪の奴隷、罪に支配されていたところから、解放され、自由とされました。その自由をどうするか、というと、自分で主に従うことを選び取っていくのです。主に従うというのは、誰かに無理やり、強いられて、というものではありません。自分の意志で主に従っていくのです。もっと言いますと、「恵みの強制」によって主に従っていくのです。「恵みの強制」、それは、神さまの救いの恵みに押し出されて、促されて主に従っていく、ということです。私は神さまによって救われた。この恵みに感謝して応えていこう、主に従っていこう!それがキリストの奴隷ということです。

(むすび)
7:24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。
 この言葉は20節の繰り返しですが、「神の前にとどまっていなさい」という言葉が加えられていました。割礼のこと、奴隷のことがこの箇所では扱われていましたが、私たちは、この「召されたときの身分のまま」(聖書協会共同訳は「召されたときの状態で」)ということをどのように考えるでしょうか。ここで語られていることは、あなたの今の状態、現状がどのようなものであろうとも、あなたは神さまの前にある、神さまと共にある。神さまの恵み、祝福の中にある、ということが語られているのです。
私たちの今の状態、現状はどのようなものでしょうか。ある人にとっては、今、苦しみの中にあり、とても喜ぶことなどできない、と言われる方があるでしょう。無理に喜ばなくてもよいと思いますし、喜ぶふりをする必要もないと思います。ただ私たちは「神の前にとどまっていなさい」とありましたように、神さまの前にとどまり、神さまに祈り求めていくのです。それぞれに神さまからの言葉を聴くことができますように、神さまからの必要な助け、守りがありますように。神さまは私たちのすべてをご存じです。神さまは私たちを愛しておられる方です。神さまを信頼して歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
  割礼の有無、奴隷かそうでないか、そういった生活の具体的なことで思い悩む人たちに、パウロは神さまの言葉からアドバイスをしました。私たちも同じように、自分たちの置かれている立場、境遇などから、自分に神さまの恵みが与えられているのだろうか、祝福されているのだろうか、と思い悩むことがあります。
 「召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」とありました。神さまは私たちがどんな状況にあってもそこに共におられます。だから、私たちは神さまの前にとどまって、祈り求めます。どうか、祈りに応えてください。また苦しみの中にある兄弟姉妹のことをおぼえて祈り合う者でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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