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【礼拝説教】2022年10月23日「神の栄光を現すために」

2022年10月23日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「神の栄光を現すために」コリントの信徒への手紙Ⅰ10章23節~11章1節

聖書―コリントの信徒への手紙一10章23節~11章1節
(はじめに)
 「すべてのことが許されている」(23節)。今日お読みしました聖書の最初に書かれていた言葉です。ここで言われているのは、キリストを信じる者は、すべてのことが許されている、ということです。ゆるされている、というと、罪の赦しのことを考えるかもしれませんが、その場合の「赦し」とは別の言葉が使われています。許可されているという時に使う「許し」です。「すべてのことが許されている」とは、私たちは、すべてのことから自由にされている、ということです。
 そうは言いましても、私たちの生活は決して、自由ではありません。何かに縛られています。制約があります。規則があります。あるものは私たちにとって大事なことです。法律とか、交通ルールなどは、守るべきものです。でも、一方では、これは本当に守るべきものなのだろうか?というものもあります。例えば、家庭や地域のしきたりなどはそういうものと言えるでしょう。他にも世の中にはいろいろなオキテがあります。そういうわけで、私たちはすべてのことから自由にされている、と言っても、実際には自由にできないでいるというのが現実です。けれども、私たちは、それでも、すべてのことから自由にされているのです。キリストを信じる者はすべてのことから自由にされている。それはたとえそれが私たちを縛りつけているようであっても、私たちはそのことに支配されていない、そのことの奴隷ではない、ということです。
 また、すべてのことが許されている、すべてのことから自由にされている、ということ自体を私たちが誤解していることもあります。自由というのは、放縦とか自分勝手ということではありません。ですから、パウロは、こうも言っています。23節には「しかし、すべてのことが益になるわけではない」、「しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」とあり、24節には「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」とあります。
 私たちはすべてのことが許されています、すべてのことから自由にされています。しかし、その自由をどうするのか?どう用いるのか?そのことが今日の聖書の言葉が教えていることです。

(聖書から)
 あなたがたはすべてのことが許されている、すべてのことから自由にされている、とパウロは語りながら、しかし、すべてのことが益になるわけではない、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい、と語っています。どういうことでしょうか?すべてのことが私たちを造り上げるわけではない、この言葉から考えてみたいと思います。
 私たちを造り上げるわけではない。別の訳で見てみますと、口語訳聖書では「すべてのことが徳を高めるのではない」とありました。比較的新しい訳で見てみますと、新改訳2017では「すべてのことが人を育てるとはかぎりません」となっています。それぞれに味わい深い言葉で訳されていますが、直訳的には、新共同訳聖書のように「すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」とありましたように、造り上げる、または、建て上げる、という言葉です。これは建物を建設する、という場合に使われる言葉です。
 このように、パウロは、コリントの教会の人たちに、与えられた自由を自分勝手に、自己中心的に用いるのではなく、私たちが造り上げられるため、育てられるため、徳を高めるため、そういう目的、目標を持って、その自由を用いるようにしなさい、と言っているのです。
 私たちが造り上げられるために。これは、教会の専門的な言葉で言うと、牧会ということです。パウロは、あなたがたは牧会的な視点、考えを持ちなさい、と言っているのです。牧会というのは、牧会者が、教会に連なる一人一人が神さまによって養われ、成長していくように、指導する、導く、ということです。牧会者というと、牧師のことや教会のリーダーのことと考えます。しかし、教会の一部の人たちだけでなく、教会全体が、教会に連なるお互いが牧会的な視点、考えを持つことを聖書は語るのです。
 私たちが造り上げられる、建て上げられるとは、教会が造り上げられること、建て上げられること、つまり、教会が成長することです。私たちは、教会の成長というと、大きな会堂、建物を建てるとか、人数が増えるとか、そういう目に見えることを考えがちですが、教会の成長ということで、最も大事なことは、教会に連なるお互いが神さまの言葉によって養われ、成長していくことです。そのことを示しているエフェソの信徒への手紙4章12節以下の言葉をお読みします。
4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
 教会の成長を考える時、お読みしましたこの言葉はとても大事です。
 さて、今日の箇所に戻りますが、25節以下では、再び、偶像に供えた肉の問題が取り上げられています。この書が書かれた当時、偶像に供えた肉が市場に出されるようなことがありました。そういう肉を食べることは信仰的に問題のあることなのだろうか?と心配した人たちがいました。しかし、パウロはこう言っています。「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです」(25、26節)。
 神さまが与えてくださったものだから、感謝して食べるように、と言っています。ところが、27、28節では、あるケースについて語っています。それは、信仰を持っていない人から、食事に招かれた時のケースです。その家庭で偶像に供えられた肉が出た場合、気にしないで食べなさい、と言っています。けれども、その場にいる誰かが、「その肉は偶像に供えられたものですよ」と言って気にするならば、あなたはその人のために、それを食べないようにしなさい、と言うのです。食べてもよい、と言ったり、食べてはいけない、と言ったりして、パウロは一貫性のないことを言っているように思えますが、29、30節では、このようなことが言われています。「わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです」。
 この箇所は分かりにくいかもしれませんが、ここで言われていることは、自分に与えられている自由が他人によって左右されないように、振り回されないように、ということです。左右されない、振り回されない、というと、自分が偶像に供えた肉を食べることで、そのことを気にする人がつまずいてもいっこうに構わないということになるのではないか、と思えますが、パウロが言っていることは、他人によって左右されないで、振り回されないで、自分で主体的に判断しなさい、ということです。私は、あなたが偶像に供えた肉を食べることでつまずくというならば、私はあなたのことを配慮して、あえて食べることはしません、ということです。
 このことについて、卑近な例えをしますと、私が木登りをして、高いところからポーンと飛び降りることができるとしても、大人の人の前では、自分はこんなことができるのだ!と自慢して見せたとしても、小さな子どもの前では、それをしない、見せないということです。なぜなら、もし、子どもがそれを見て、ああ、面白そうだ、自分もそれをやってみよう!と真似をするなら、大変なことになってしまうからです。それで子どもが真似をして怪我をするようなことがないように、と配慮して、考えて、あえてそれをしない、見せないということになるでしょうか。

(むすび)
 「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」(31~33節)。
 すべてのことは許されている、すべてのことから自由とされている。そういう私たちですが、その自由が人を惑わす原因、つまずきになることがあります。しかし、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とありました。パウロ自身が求めていたことは「人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」ということでした。パウロにこのような思いを、求めを与えたのはイエス・キリストでした。
パウロはこのようにも語ります。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(11章1節)。イエス・キリスト、この方はどこまでも他者のために生きられた方でした。パウロはそういうキリストの生き方に倣ってきました、真似てきました。私たちもパウロのように、キリストに倣っていきたい、キリストの生き方を真似ていきたいと思います。そのことによって、私たちの後に続く人たちが、子どもたちがキリストを知ることができたら、キリストに出会うことができたら、それは本当に喜ばしいこと、幸いなことです。お祈りします。

祈り
恵み深い主なる神さま
私たちに与えられた自由が神さまの栄光を現すものとなりますように。人々の益、すなわち、救いのために用いられるものとなりますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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