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【礼拝説教】2022年10月30日「主は羊飼い」

聖書―詩編23編1~6節
(はじめに)
 お読みしました聖書の箇所は詩編23編です。詩編の中でもよく知られている箇所の一つです。詩編23編はこのような言葉で始まります。
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 「主は羊飼い」と詩編の詩人は語ります。この詩編について、「賛歌。ダビデの詩」とありました。イスラエルの王であったダビデの詩、ダビデが神さまを賛美した詩であるという説明から始まっています。
 新共同訳聖書では、「主は羊飼い」とありましたが、口語訳聖書では、「主はわたしの牧者」となっていました。先週の説教で、牧会ということをお話ししました。これは教会でしか聞くことのない言葉かもしれません。牧会というのは、神さまによって養う、養われるということです。
 神さまが羊飼いならば、私たちはその羊飼いに養われる羊なのです。イスラエルの王ダビデは、私は神さまに養われている羊であり、神さまは私を養ってくださる羊飼い。そのように言ったのです。そして、私たちも羊です。神さまという羊飼いに養われて生きる者なのです。

(聖書から)
 もう一度、1節をお読みします。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。口語訳聖書では、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」となっています。神さまが私の羊飼いだから、私には何も欠けることがない、私には乏しいことがない、というのです。この言葉を読んで、皆さんはどのようなことを思ったでしょう。私はこのように思いました。神さまは私の必要を満たしてくださる方。
 では、この私の必要というのは、誰が決めるのでしょうか?自分自身が決めることでしょうか?そうであるならば、神さまは私の必要を満たしてくださる方などとは言えないかもしれません。神さま、私はあなたにこのように願っていたのに、どうして、その願いに応えてくださらないのですか?と言うことばかりになるかもしれません。イエスさまが語られた言葉がそのことについて考えるヒントになると思います。マタイによる福音書7章7節からの言葉です。
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
 イエスさまは、求めなさい、と言われました。求める者は受ける。神さまは、求める者に良い物をくださるに違いない、とも言われました。だから、何でも神さまに求めていきたいと思うのです。ただ、ここでイエスさまが「良い物」と言われているのは、私たちにとって良いと思う物でしょうか?神さまから見て良いと思われる物でしょうか?また私たちにとって良いと思う物、神さまから見て良いと思われる物、それはまったく同じ物なのでしょうか?私はここでイエスさまが言われた「良い物」というのは、神さまから見て良いと思われる物であり、私たちにとっても良い物だと思います。けれども、初めのうちは私たちにはそうは思えないかもしれませんが、後になって、私たちにとっても良い物だということが知らされる、分かってくる。そういうものだと思うのです。
 もう一つ、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」、このことについてお話ししたいと思いますが、私はこの言葉を読む度に、神さまがこの私に何か必要なものを与えてくださる!何か良い物を与えてくださる!そのように期待して、ワクワクしていましたが、ある時、このように思うようになりました。それは神さまご自身が私を満たしてくださる方。神さまご自身が私の欠けを、私の乏しさを満たしてくださる方ということです。
続いて2節と3節前半をお読みします。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。
 神さまは私たちを休ませてくださる、憩わせてくださる。そして、魂を生き返らせてくださる方というのです。魂というと、心とか精神的な部分と考えるかもしれませんが、これは人間のすべて、心身共に、全人格的ということです。この詩を歌ったダビデは神さまという方は私たちを、心身共に、全人格的に生き返らせてくださる、というのです。
3節の後半では、このような言葉が語られています。
23:3 主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
 神さまは私を正しい道に導いてくださる、とあります。正しい道とは何でしょうか?それは神さまがお示しになる道です。私たちの人生というのは、道を歩いているようなものです。いろいろな道があります。私たちは神さまから自由な意志を持つ存在として造られましたから、自由に選び取っていくのです。私たちはあの道を、いやこの道を、と選択して歩みます。でも、神さまは私たちを自由な者としてお造りになったからといって、私たちを放りっぱなしにはされませんでした。私たちのために正しい道を示されました。同じ詩編の言葉にこのようなことが語られています(詩編119編9、105節)。
119:9 どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
 正しい道とは具体的には「あなたの御言葉」とありましたように、神さまの言葉です。神さまの言葉、それは神さまが私たちのために用意してくださった人生の地図、道しるべ、ガイドブックと言ってもよいでしょう。これに聴きながら、尋ねながら、一歩一歩を歩んでいくのです。
 詩編23編4節をお読みします。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
 この「死の陰の谷」という言葉ですが、別の訳では「暗黒の谷」(岩波訳)とも訳されています。私たちの人生には、死の陰の谷、暗黒の谷と思えるようなところを歩まなければならないこともあります。しかし、詩人はこのように歌います。「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。まさにそれは災いと思えるようなことですが、私は災いを恐れません、と言っています。なぜ、そのように言えるのかというと、「あなたがわたしと共にいてくださる」から、というのです。
この詩編23編を読んでいる途中から気づかされることがあります。それはこの詩人が神さまをどのように呼んでいるか、ということです。3節までは神さまを「主」と呼んでいましたが、4節からは「主」が「あなた」に変わっています。この「あなた」という呼び方はとても身近な存在、近しい存在という意味です。この詩人は神さまをそのような方として、心にお迎えしているのです。「あなたがわたしと共にいてくださる」と本気で、心から信じているのです。神さまはおそらく、たぶん、私と一緒におられるのだろう、という程度のことではないのです。頭の中でそのように理解しているというだけではないのです。神さまが私と一緒におられ、私の人生を一緒に歩んでくださっている、と心から信じているのです。だから、災いと思えるような状況にあっても、私は災いを恐れません。主が共におられるから!と言えたのです。
4節後半には「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」とありました。鞭というのは、羊飼いが羊を守るために、外の敵、猛獣でしょうか、泥棒でしょうか、それらを追い払うためのものです。杖というのは、羊を導く杖です。羊飼いである神さまの守りをおぼえ、神さまの羊であると自覚する詩人は力づけられるというのです。
5節をお読みします。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
 「わたしを苦しめる者」、口語訳聖書では「わたしの敵」となっていました。私たちは自分の目の前に、自分を苦しめる人がいると、あるいは苦しみにあると、心が弱り果てて、食事を口にすることもできなくなります。しかし、「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」というのは、主が共におられ、主の守りを信じるなら、安心して生きることができるということです。
 そして、「わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる」と続きます。神さまが共におられる人生、それは私たちに本当の喜び、豊かさを注ぎ、溢れさせるほどのものだというのです。私たちはそのことを知ったなら、他の人たちの杯、人生に神さまの喜び、豊かさを注いでいくのです。それが伝道、福音を宣教するということです。

(むすび)
 詩篇23編の最後の言葉をお読みします。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
 私たちの地上での生涯、人生というのは、神さまの恵みと慈しみが私たちを追いかけてくるようなものだ、というのです。それはどうしたら分かるのでしょうか、気づくことができるのでしょうか?「主の家にわたしは帰り」とありました。主の家に行く時、主の恵み、慈しみを知るのです。ところで、主の家とは何でしょうか?神さまを礼拝するところ、幕屋、神殿、教会・・・。いろいろなことを考えることができます。「毎週、教会に集い、兄弟姉妹と一緒に神さまを礼拝することが私の喜びです」。このように言われる方があります。素晴らしいことです。主の家、それは教会という建物や場所ということでも考えることができますが、聖書は、教会はキリストの体(一コリント12章27節)であり、神さまを信じる私たちが神さまの神殿(一コリント3章16、17節)であると教えています。そういうことから言うならば、主の家に帰るとは、私たちが神さまとの交わりに生きるということです。神さまは信じる者の内におられます、共におられます。ですから、私たちはいつでもどこでも神さまとの交わりに生きることができるのです。いつでもどこでも神さまに祈り、神さまの言葉に聴き、神さまの恵みと慈しみをおぼえて歩みましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 詩編23編の言葉をありがとうございます。詩編の詩人が神さまと共にある人生がどんなに素晴らしいものであるかを歌っています。私たちも神さまと共に歩む時、この詩編の言葉が私たちの詩編、賛美となっていくと信じます。
 主の家に帰ることは世の何ものにも変えられない大きな恵みです。それは神さまとの交わりに生きるという恵みです。あなたの言葉はいのちの言葉です。どうぞ、あなたが私たちに言葉を語ってください。私たちはあなたの言葉を聴き、祈ります。あなたのことをもっともっと深く知ることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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