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【礼拝説教】2022年11月13日「祈るときには」

聖書―マタイによる福音書6章5~8節
(はじめに)
 お読みしましたマタイによる福音書6章の前半には、聖書の時代の善行について、イエスさまが語られていることが書かれていました。三つの善行、それは施し、祈り、断食でした。その内容に入るとき、イエスさまは前置きとして、このようなことを言われました。
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
 ところで、ここに書かれている「善行」という言葉ですが、別の訳では「義」と訳されています。口語訳聖書で1節を読んでみます。
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
 義、それも「自分の義」となっています。義とは、正しさということです。自分の正しさを主張するということです。自分の正しさを主張するならば、神さまの報いを受けることがない、というのです。この時代のユダヤの人たちの間では、施し、祈り、断食といった善行を行なうことで、自分の正しさを主張する人たちがいました。しかし、イエスさまは、施し、祈り、断食、それは素晴らしいことだけれども、自分の正しさを主張することが目的ではない、と言われたのです。それを主張することで、神さまの報い、神さまの恵みが見えなくなり、それを受け止めることができなくなってしまうのだ、と言われたのです。

(聖書から)
 祈りについて書かれている聖書の箇所をお読みしました。祈りについては、5~15節まで書かれていますが、今日は前半の5~8節についてお話ししたいと思います。5節をお読みします。
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 ここでも、前回の施しの話と同じく、偽善者のようであってはならない、と語られています。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂、大通りの角など、人の多くいるところで立って祈りたがる、というのです。そうすることで、多くの人たちから、あの人は熱心に祈っている。信仰深い人だ、と賞賛の声を聞いたことでしょう。しかし、「彼らは既に報いを受けている」とイエスさまは言われます。
 この「彼らは既に報いを受けている」ということですが、新改訳2017の訳では、「彼らはすでに自分の報いを受けている」と訳されています。「自分の報い」とあります。神さまの報いを受けているのではない、ということです。先ほど、神さまの報いについて、神さまの恵みとも言いましたが、「自分の報いを受けている」というのは、神さまの報い、神さまの恵みを知らないということです。
 これと対照的なのが、続く6節です。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 先ほどは、人に見えるように、見せるように祈る人たちのことが言われていましたが、ここでは反対です。人に見えないところでの祈りが言われています。祈りは、隠れて行なえ、ということでしょうか?そうではありません。祈る姿が人に見えても、見えなくても、どちらでも構わないのです。大事なことは誰に向かって祈るか、ということです。
 「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。このようにイエスさまは言われました。あなたの父、すなわち、神さまに祈りなさい、ということです。それに対して、人に見えるところで、見せようとする祈り、それは誰に向かって、誰に対しての祈りだったのでしょうか?信仰をお持ちになって間もない方からよく尋ねられることは、人前で祈ることについてです。教会の集会などに出席すると、人前で祈る機会があるけれど、自分はお祈りが得意ではないので、人前で祈ることはなかなかできない、勇気がいる。そう言って悩んでおられる話を聞きます。よくよくその話を聞いてみると、いろいろな人が自分の祈りを耳にする。すると、自分がどれだけ信仰のことが分かっているか、分かっていないか、人から評価されるような気がする、と言われるのです。
今日の聖書の言葉は、人前で祈りたがる人たちの話でした。そういう人たちというのは、自分の祈りに自信がある人たちだったのでしょう。一方、人前で祈ることが苦手だ、と言われる方は自分の祈りが聞かれることが嫌だとか、自信がない、ということでしょう。自分の祈る言葉や信仰に自信がない、というのは決して悪いことでも何でもありません。けれども、あまり人を意識しすぎて、神さまに心を向けることができなくなってしまうなら、それは残念なことです。自分の祈る言葉や信仰に自信がないのは構いませんが、神さまは私たちの祈りを聞いておられること、真剣に、また喜んで耳を傾けておられることは忘れてはなりません。それは人が自分の祈りをどう思っているか、どう考えているか、ということよりもはるかに大事なことです。
 「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。ここでイエスさまが言われていることを、文字通り、自分が一人で神さまに祈る部屋とか時間を持つということで受け取ってもよいのですが、ここで言われていることは、私たちの心の中です。祈りとは、究極的には、神さまと私の関係においてのことです。誰も聞いていない、誰も知らない、あるいは誰にも言えない、そういうこともすべて神さまに申し上げるのです。もちろん、先取りして8節をご覧いただくと分かるように、神さまは私たちが祈る前から、私たちの心の願いのすべてをご存じです。
こう言いますと、神さまは私たちのすべてをご存じならば、わざわざ祈る必要はないのでは?そのように思われる方があるかもしれません。私たちには、言葉を交わさなくても、通じ合うような親しい関係、間柄の方がおられるかもしれません。以心伝心もいいでしょうが、やっぱり言葉が欲しい。私はそう思います。神さまもそうではないかと思います。だからこそ、神さまは、私はあなたのことはすべて分かっているから祈らなくてもいいよ、とは言われません。祈ることを求めておられます。
「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。神さまは私たちの言葉だけでなく、その心の叫び、気持ち、そういったものもすべて受け止めてくださる方です。私は聖書の中に出てくる人物のある祈りがいつも読む度に感動します。その箇所を読んでみます(サムエル記上1章10~15節)。
1:10 ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。1:11 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
1:12 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。1:13 ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、1:14 彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」1:15 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
ハンナの祈りです。ハンナは子どもを産めないことを悲しんでいました。そのハンナが神さまに心からの祈りをささげている場面です。祭司エリにハンナはこのように言っています。「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」。心からの願いを注ぎ出していた、と言っています。私たちの祈りもこのような祈りでありたいと思います。神さまに自分の心を注いでいく、ぶつけていく、そういう祈りです。
今日の聖書箇所に戻って、7、8節をお読みします。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
 くどくどと祈る、言葉数を多く祈る。これを聞くと、長い祈りはよくないのか、と考えるならば、そういうことではないと思います。むしろ、大事なことは、先ほどのハンナのように、心を込めて、心を注ぎ出して祈るということです。ここで言われているくどくどと祈るとか、言葉数を多く祈るというのは、ひと言で言えば、呪文のような祈りのことです。何度も呪文のような言葉を唱えれば、祈りが聞かれる、と考えていた人たちがいました。そこでイエスさまは、祈りとはそういうものではない。祈りとはあなたの心を神さまに注ぎ出すこと、神さまとお話しすること。祈りは本当に素晴らしい、嬉しいものなのだ、と言われたのです。

(むすび)
 イエスさまが教えられた祈り、それは神さまというお方は私たちのことを愛しておられる。私たちの祈りを聞いておられる。だから、人にほめられるためとか、そういうことよりも、神さまに対して、安心して、心を開いて祈ってみなさい、ということです。イエスさまは「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われましたが、これは神さまに祈ることを通して、神さまと深い、親しい関係、間柄になっていくことで、神さまの報い、神さまの恵みをあなたがたはもっともっと知るようになる、分かるようになる、ということです。祈りとは、クリスチャンとして祈らなければならない義務というものではありません。祈りとは、神さまとの交わりです。祈りそのものが神さまからの恵みです。祈ること、祈れることの喜びを体験していただければ幸いです。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主は祈りという神さまとの交わりのために与えられた恵みを見失っている人たちに祈りの恵み、喜びを教えてくださいました。
 人々の賞賛よりもはるかに素晴らしい、そして、いつまでも変わることのない、無くなることのない神さまの報い、神さまの恵みが与えられていることをおぼえて生きる私たちでありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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