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【礼拝説教】2023年6月11日「ただ、お言葉をください」

2023年6月11日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「ただ、お言葉をください」マタイによる福音書8章1~13節

聖書―マタイによる福音書8章1~13節
(はじめに)
イエスさまが、山の上で人々に神さまの福音を語られた。そのことが書かれていたのが、マタイによる福音書の5~7章でした。これはイエスさまの「山上の説教」と言われます。イエスさまはお話を終えられ、山を下りられました。すると、人々も一緒に下りられた、ということが書いてあります。
8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
今日お読みしました聖書の最初の言葉を読みました。イエスさまが山を下りられると、大勢の群衆が従った、とあります。イエスさまのお話を聞いて、イエスさまについていきたい、と思ったのでしょうか?教会が皆さんにお勧めすることというのは、この、イエスさまについていく、ということです。イエスさまについていく。イエスさまと一緒に人生を歩んでいく。これが何よりも素晴らしいこと。教会がお勧めすることはこのことなのです。
さて、イエスさまについていった人たちの話をこれから、聞いていきます。イエスさまについていくことの素晴らしさをこの人たちの話から聞いていきたいと思います。

(聖書から)
イエスさまが山を下りられたら、さっそくある一人の人がイエスさまのもとにやって来ました。どんな人だったのでしょうか?
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
その人は重い皮膚病を患っている人でした。皆さんお持ちの聖書には、もしかすると、「重い皮膚病」と書いてあるところが、「らい病」と書いてあるかもしれません。この重い皮膚病というのは、らい病、ハンセン氏病と考えられていた時代がありました。最近は、どうもそうではなくて、今で言うと、どういう病気になるのか、はっきりしたことは分からないそうです。この人は自分の病気で苦しんでいました。そして、イエスさまに近寄り、ひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
この人もイエスさまの「山上の説教」を聞いていた人だったのでしょうか。イエスさまから、神さまの福音を聞いて、イエスさまに自分の病気の悩みを相談してみようと思ったのかもしれません。自分の方からイエスさまに近寄って、ひれ伏し、「主よ」と呼びかけています。イエスさまが特別な方であると思っていたのでしょう。
イエスさまに、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。「御心」とは、イエスさまの心ということです。イエスさまのお考え、思い、ということです。それに続いて、「わたしを清くすることがおできになります」と言っていますが、これは私の病気を治すことができます、ということです。どうして、「清くすることがおできになります」と言ったのかというと、聖書の舞台であるユダヤでは、重い皮膚病に患っているというのは、けがれていると考えられていたからです。ですから、この人は病気の苦しみというだけでなく、けがれた人とみなされ、そのけがれが人にもうつると考えられていたため、人々から疎外されていた、という苦しみもあったのです。二重の苦しみにあった人だったのです。
そういう苦しみにある一人の人にイエスさまは出会われ、どうされたか、ということが、次の3節に書かれています。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
ここで驚くような出来事が起こっています。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」とありました。イエスさまが、けがれた人とされていたその重い皮膚病の人に手を差し伸べて触れた、というのです。その人に触れたらけがれがうつる、と考えられていましたが、イエスさまは、その人に触れたのです。この様子を見ていた人たちはとても驚いたのではないかと思います。そして、イエスさまはこのように言われました。「よろしい。清くなれ」。この「よろしい」というのは、「これは私の心です、私の願いです」という意味です。先ほど出てきました「御心」、イエスさまの心ということです。「清くなれ」というのは、あなたの病気が治るように、ということです。すると、この人の重い皮膚病は清くなった。つまり、治った、ということです。
4節に書かれていますように、イエスさまは当時のユダヤの規定に従って、病気が治ったことを判定する祭司に自分の体を診せるようにしなさい、と言われました。このようにして、一人の人が癒されました。しかし、ここに書かれていることは、この人の体が癒された、というだけでなく、けがれた者とされていた差別、偏見から解放され、社会復帰できた、ということです。けがれているから触れてはならない、と言われていた人に、イエスさまは触れられたのです。あなたはけがれた人ではない。あなたは社会のただなかで生きていくことができる。そういうメッセージとして聞くことができます。この時代から二千年経った今、この日本においても、差別、偏見というものがいろいろな形であり、それによって、人が疎外される、孤立させられている、ということがあります。この聖書の出来事を通して、神さまの御心、イエスさまの心は何であるのか、教えられるのではないでしょうか。
この後の5節以下の出来事、それはローマの百人隊長が自分の僕の病のことでイエスさまに相談するという内容です。ローマの百人隊長というと、当時、聖書の舞台であるユダヤを支配していたのはローマでした。この百人隊長は、ローマの人であったか、他の国の出身であったか、はっきり分かりませんが、ユダヤ人ではありませんでした。ですから、ユダヤ人から見ると、神さまの民ではない人たち、異邦人ということで、神さまから遠い存在と見なされていた人でした。そういう背景を踏まえながら、この百人隊長とイエスさまのやり取りを読んでみたいと思います。
8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスさまは、この人がユダヤ人ではないことを知っていましたが、この人が僕の病で大変心配していたことを受け止められて、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。ところが、この人は、こう答えています。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。
とても謙遜な人、遠慮深い人のようにも思えますが、先ほどお話ししたように、この人は異邦人でしたから、このように言ったのです。自分はユダヤ人からは、神から遠い存在と見なされている。けれども、私は、この方を「主」と信じている。異邦人である私の家に来ていただかなくても、そのお言葉さえいただけるなら、僕は癒される。彼はそう言ったのです。
実際にイエスさまに来ていただいて、祈っていただくなら、ずっと効果的ではないのか?と思いたくもなりますが、彼はこう言いました。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。この人は、イエスさまの「山上の説教」を聞いていたのでしょうか、イエスさまの語る神さまの福音を聞いていたのでしょうか。そうだとすると、神さまの言葉、その言葉の持つ力を信じていたのではないでしょうか。
イエスさまを救い主と信じて歩む生活、信仰生活、それはどのようなものでしょうか?信仰が成長するというのはどういうことでしょうか?いつも元気で、イエスさまのためなら、あれもこれもします!と神さまのため、教会のために一生懸命に働くことが信仰の成長ということでしょうか。けれども、体や心に弱さをおぼえて、できていたことができなくなる、ということがあります。それは成長ではなくて、退行ということになるのでしょうか。信仰がダウンするということでしょうか。
ローマの百人隊長は、神さまの言葉の持つ力を信じていた人と言いました。この人は、自分の僕のことで、自分には何もできない。僕が苦しむ姿を見ながら、おろおろしていたと思います。どうしたらいいだろう・・・。自分の無力さをおぼえていたと思います。実は、自分の無力さ、弱さを知るということはとても大事なことなのです。なぜなら、その時こそは、信仰の成長、信仰の飛躍の時だからです。信仰の成長、飛躍、それは、自分が強くなるとか、自分が立派に事を成し遂げるということではなくて、むしろ、自分の無力さ、弱さを知り、神さまの言葉に頼るほかないこと、神さまに、そして、人々に祈られ、支えられるほかないということを知るということなのです。そして、自分を超えて、自分を用いて、生きて働かれる神さまの恵みを知るのです。神さまの恵みからすべてのことを考え、生きる者とされるのです。

(むすび)
イエスさまは、この百人隊長の答えに感心した、とあります。
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
この「感心した」というのは、もっと直訳的には、「驚いた」ということです。イエスさまは驚かれたのです。ただ一言だけで、ただお言葉だけで。この言葉に対して、イエスさまは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。この「これほどの信仰」というのは、もう、神さまの他に何も頼るものはない。私はあなただけを頼りにしています!という信頼の心だと思います。
イエスさまは、百人隊長に言われました。
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
百人隊長に、「あなたが信じたとおりになるように」と言われました。神さまへの絶大な信頼、そして、祈りにイエスさまは応えてくださり、僕は癒されました。「これほどの信仰」、それは、神さまへの信頼です。重い皮膚病の人はイエスさまに「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。百人隊長は「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言いました。私たちは、神さまの御心、神さまの言葉を信頼して歩んでいこうではありませんか。

祈り
恵み深い主なる神さま
山の上でイエスさまから神さまの福音を聞いた人たちは、山を下りた途端、世の中の現実のただなかでもがき苦しみました。そして、そこでこそ、神さまの御心を求め、神さまの言葉を信頼して生きることを教えられました。
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った重い皮膚病の人に「よろしい。清くなれ」と主は言われ、癒されました。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言った百人隊長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と主は言われ、癒されました。彼らの主への信頼に応えてくださいました。
これから始まります新しい週の世の旅路にあって、私たちも、それぞれの置かれたところで、神さまの御心を求め、神さまの言葉を信頼して生きる者でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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