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【礼拝説教】2023年1月15日「主の前に集う私たち」

聖書―コリントの信徒への手紙一11章17~22節
(はじめに)
 現在、私たちの教会では、新型コロナの感染拡大が始まってから、つまり、2020年4月から、主の晩餐式を行っていません。パンとぶどうジュースの入った杯を配餐することは、食べ物と飲み物を配ることになり、感染予防のために中止しています。けれども、昨年、せめて、主の晩餐式のパンと杯の配餐はしなくても、主の晩餐のことが書かれている聖書の箇所を読んで、パンと杯が象徴するイエスさまの肉と血、イエスさまの十字架の救いのみわざをおぼえる時を持とうということで、聖書朗読のみを行っています。感染予防をしなくてもよいような状況になって、主の晩餐式の配餐も安心して行える、その日を待ち望みながら、共に主を礼拝していきたいと思います。
 ところで、なぜ、最初に主の晩餐について触れたのかと言いますと、今日の礼拝でお読みしました聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一11章には、その主の晩餐のことが書かれているからです。今日の箇所は、その前置きの部分です。

(聖書から)
 お読みしましたのは、コリントの信徒への手紙一11章17~22節です。新共同訳聖書の小見出しでは、「主の晩餐についての指示」となっています。「指示」という言葉は、国語辞典で見てみますと、「これがそうだと、指でさして、または指さすように示すこと」(『岩波国語辞典第8版』)とありました。この説明を受けて言うならば、主の晩餐とは、こういうものだ、本来、こういうものなのだ、ということがここに書かれていることです。さっそく今日の聖書箇所を見ていきます。17節です。
11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
 小見出しの言葉から言いますと、「次のことを指示するにあたって」というこの「次のこと」というのは、主の晩餐のことを言っていることになります。主の晩餐のことを指示するにあたって、私、つまり、パウロは、あなたがた、これはコリントの教会の人たちのことです。あなたがたコリントの教会の兄弟姉妹をほめるわけにはいかない、と言っているのです。なぜかというと、あなたがたの集まりが、良い結果よりは、悪い結果を招いているから、というのです。
 あなたがたの集まり。コリントの教会の人たちの集まりということです。ところで、この集まりというのは教会にとって、とても大切なことです。ある方は、教会という言葉は原語からすると、正確な訳ではない、と言われます。教会と日本語で訳されている言葉、これはギリシア語では、エクレシアと言います。エクレシアというと、何か美味しそうな食べ物のように考える方があるかもしれませんが、それはエクレアです。私も好きな食べ物ですが、エクレアではなく、エクレシアです。このエクレシアというのは、原語に即して訳すならば、集会です。それで、無教会主義の方は、教会を集会と言います。例えば、駒込集会、杉並集会というふうに言います。また無教会の学者が訳した注解書などを読みますと、やはり、教会とは訳さず、集会と訳してあります。集会、集まりです。教会は集まるということが大切なのです。どんなに立派な建物を建てたとしても、そこに主を信じる人たちが集まらなければ、教会は生きたものとはなりません。ヘブライ人への手紙10章25節に、「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」とあります。聖書協会共同訳では、「集会をやめたりせず」となっています。教会が集まることをやめたら、教会としての命を失うことになります。私たちは集まり、そして、互いに励まし合うのです。では、何を、どのようにして励まし合うのかというと、「かの日が近づいているのをあなたがたは知っている」とありました。この「かの日」というのは、終わりの日、終末の日のことです。その日には、イエスさまが再びおいでになります。そして、新しい天と地を創造されます。イエスを主と信じる者にとっては、その日は喜びの日です。その日を待ち望みながら、私たちは今を生きるのです。今の時をイエスさまの言葉、命の言葉によって生きるのです。イエスさまがおいでになる。救いの完成の日が来る。その希望を待ち望み、分かち合い、歩むのです。それが私たちの励ましです。
 しかし、今日のこの箇所では、教会の集まりによって、良い結果ではなく、悪い結果が出ているというのです。その悪い結果とは何でしょうか。そのことが今日お読みしました聖書箇所の18節以下に書かれています。18節には、「仲間割れ」、19節には「仲間争い」とあります。この仲間割れ、仲間争いと言いますと、コリントの信徒への手紙一の1章に、この教会の中に分派争いがあったことが書かれていました。私はパウロにつく、私はアポロに、私はケファ(ペトロ)に、というふうに、自分の気に入った指導者たちの名前を付けたグループがあったようです。パウロなど指導者たち自身は、そういう分派活動には関わっていなかったようですが、どのグループが偉いとか、信仰的だとか言って、競争したりする人たちがいたのでしょう。
 18、19節などを読んでいきますと、パウロは仲間割れ、仲間争いも仕方がないと言っているように思えます。そして、そういうゴタゴタがある中で、「適格者」がはっきりするとも言っています。口語訳聖書では、「ほんとうの者」と訳されていました。仲間割れ、仲間争いは良いことではもちろんないけれども、そういうことを通して、私たちの信仰が鍛えられる、磨かれていく、ということが言われているのです。私たちの教会の歩みも、いつも順調で、何の問題もないかというと、そうではありません。おそらくどの教会でもそうでしょう。しかし、その問題、課題を通して、私たちの信仰は鍛えられ、磨かれるのです。そのようにして、私たちは、より本物の信仰へと、本当の者、本当のキリスト者へと導かれていくのです。
 ところで、今日お読みしましたこの箇所で言われている仲間割れ、仲間争いというのは、パウロ派とか、アポロ派というようなものとは違うようです。そのことは20~22節の言葉から分かります。まず、20節には、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」とあります。そして、21節には、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だから」とあります。ここで言われていることは何であるのか、理解しにくい内容ですが、この当時、主の晩餐というのは、教会でみんなが一緒に集まって食事をすること、私たちの教会で言えば、コロナ禍前には、私たちは礼拝の後に、一階でお昼ご飯を一緒に食べていましたが、そういう教会でみんなで食べる食事のことを主の晩餐と言っていたのです。
 コリントの教会では、みんなで食事を持ち寄って食べていました。ところが、そのことで問題が起こりました。もう一度、21節をご覧ください。「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」とありました。食事の席に最初に来た人たちがさっさと自分の分を食べてしまったのです。そして、後で来た人たちはもう自分の食べる分がなかった、というのです。これは食事の時間に早く来なかったから悪いのだとか、そういうことではないのです。というのは、後で来た人たちというのは、教会の中で比較的、生活の貧しい人たちでした。その人たちは貧しいために遅い時間まで、働かなくてはなりません。その働きを終えて、疲れた体で教会にやって来て、食事の席につこうとしたら、もう食べる物が残っていなかった、ということです。食べられなかった人たちのことが「空腹の者」と言われているのです。一方で、先に食べてしまった人たちの中には、満腹して、酔っ払っている者もいた、ということです。22節には、「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」とあります。貧しい人々が働きを終えて、遅い時間に教会に来たのに食べる物がなかった。それに対して、パウロは、あなたがたは貧しい人々に恥をかかせようとしているのか?主の晩餐というのは、自分勝手に、好き勝手に食べ、飲み、貧しい人たちのことをかえりみない・・・。そういうものではない。そんなことなら、それぞれ自分の家で食事を済ませてきなさい。そして、今から、私の話すことが、本来の主の晩餐、イエスさまが教えてくださった主の晩餐の意味なのだ。そう言って、23節からの話に続いていくわけです。そのようにして、私たちが今、行っている教会の礼典としての主の晩餐と、教会に集まって一緒に食べる食事とがはっきりと区別されていきました。

(むすび)
 教会に集まった人たちが一緒に食事をすることは素晴らしいことです。その食事のことを、愛餐と言います。ギリシア語では、アガペーと言います。アガペーというのは、愛、神さまの愛のことです。神さまの愛は、すべての人に注がれています。ですから、私たちもそのことを心に留めて、私に注がれた神さまの愛は、あなたにも注がれています。その思いをもって、主にある兄弟姉妹と神さまの愛を分かち合うのです。今日の聖書箇所では、貧しい人たちをかえりみることの必要が教えられていましたが、弱さをおぼえている人たちをかえりみることなども教えられることではないでしょうか。
 また今日の聖書箇所の最初のところでは、仲間割れ、仲間争いのことが言われていました。別の訳では、分裂、分派争い(聖書協会共同訳)と訳されています。私たちがそのようなことに陥っている状態というのは、教会の主であるイエスさま、私たちの中心におられるイエスさまを見失っている状態です。パウロは、コリントの教会の中で起こっている仲間割れ、仲間争い、具体的には貧しい人々をかえりみない、という様子に心を痛めて、イエスさまを見上げなさい。イエスさまの言葉に耳を傾けなさい、と呼びかけて、イエスさまが、十字架におかかりになる前に、弟子たちに語られた最後の晩餐の話をしました。私たちも、イエスさまを見失うことがありませんように、いつもイエスさまを見上げていきましょう。いつもイエスさまの言葉に耳を傾けていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 お読みしました聖書の言葉に先立って、パウロはこのように語りました。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(一コリント10章31節)。
 神さまの栄光、それは神さまがご自分の大切なみ子であるイエス・キリストを私たちのために送ってくださり、このお方が私たちにお示しになった愛のことです。
 私たちが語ること、行うこと、その一つ一つにおいて、主が私たちのためになさった愛を思い起こしながら、語り、行う者でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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