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【礼拝説教】2023年1月22日「主の晩餐にあずかる者として」

聖書―コリントの信徒への手紙一11章23~34節
(はじめに)
先週に続いて、主の晩餐について書かれている聖書の箇所を読みました。使徒パウロが主の晩餐について語ることになった経緯は、このコリントの信徒への手紙一が書かれた当時、今でいう愛餐、これは教会の兄弟姉妹が一緒に食事をすることですが、愛餐と、今でいう主の晩餐が区別されていなかったわけですが、その食事を一緒に分かち合うということがなされていなかった、ということをパウロは指摘して、イエスさまが語られた主の晩餐の意味をここで改めて語ったのでした。

(聖書から)
さっそく今日の聖書箇所を見ていきましょう。パウロは主の晩餐の意味を語るにあたり、このようなことを言っています。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(23節)。今から私が語ることは、私自身、主から、つまり、イエスさまから受けたもの、と言っているのです。そのように言うパウロですが、パウロ自身は、イエスさまが十字架におかかりになる前に行われた最後の晩餐の席にはいませんでした。おそらく、その時には、熱心なユダヤ教徒として、イエスさまとは何の関わりもなかったでしょう。そういうパウロが、主の晩餐の原型、元になった最後の晩餐にあずかったわけでもないのに、「主から受けた」と言っているのです。これは正確に言うならば、イエスさまを信じる人たちから伝え聞いた、ということでしょう。それを主から受けた、という言い方をしています。
私たちも聖書を読み、いろいろなことを教えられていくわけですが、神さまを信じている人は、その教えられた、ということを、神さまからの語りかけを受けた、神さまから教えられた、という言い方をします。これが、信仰を持って、聖書を読む、信仰を持って、神さまの言葉を聞く、ということです。パウロも同じです。パウロ自身は、最後の晩餐にあずかってはいませんが、最後の晩餐の時に弟子たちに語られたイエスさまの言葉を人々から伝え聞いたのです。それを、この私にもイエスさまは語ってくださった。私もイエスさまから受けたことなのです、と言っているのです。パウロは、イエスさまを信じる信仰を持って、イエスさまの言葉を人々から伝え聞いたのです。
パウロは、続いて、このように語ります。「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました」(23~25節)。
パウロは、最後の晩餐でイエスさまが語られたこと、それが今、この私にも語られたのだ、と言っているのです。イエスさまは、パン、それは私の体である、と言われました。そして、杯、それは私の血である、と言われました。パンと杯、それはイエスさまが十字架におかかりになり、裂かれた肉、そして、流された血を象徴するものだ、と言うのです。ここに「新しい契約」とあります。私たちの持っている聖書、キリスト教会では、旧約聖書と新約聖書があります。この旧約、新約というのは何を意味するのかというと、旧約とは、古い契約のことです。新約とは、新しい契約のことです。旧約聖書をお読みくださると分かりますが、古い契約では、動物の血による犠牲によって人間の罪は赦された、とされましたが、新しい契約では、イエスさまが十字架にかかり、死ぬことによって、私たちの罪が赦され、神さまの民とされるのだ、と言われたのです。「わたしの記念としてこのように行いなさい」と繰り返し、イエスさまは言われましたが、主の晩餐を行う度に、イエスさまが私たちのためになさった救いの出来事を記念する、思い起こすのです。
そして、26節にはこのように書かれています。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。主の晩餐とは、イエスさまの十字架の救いの出来事を思い起こすことです。このことを思い起こし、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」。主が来られる時、それはイエスさまが再びおいでになる時、再臨ということです。その日、その時は誰にも分かりません。マルコによる福音書には、そのことについて、このように書かれています。これはイエスさまの言葉です。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ13章32、33節)。主が来られる時まで、私たちはどうしたらよいのか、というと、「気をつけて、目を覚ましていなさい」とあります。目を覚ましていなさい、というのは、信仰の目を覚ましていなさい、ということです。先ほどお読みした言葉で言うと、「主の死を告げ知らせる」。つまり、イエスさまの十字架の救いを告げ知らせるということです。イエスを主と信じる人たち、すなわち、教会は、主が来られる時まで、何をするかというと、イエスさまの十字架の救いを告げ知らせるのです。
続く27節には、このようなことが書かれています。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」。この「ふさわしくないままで」とは、どういう意味でしょうか?よく聞く話が、ふさわしくない、というのは、神さまを信じていない人ということです。神さまを信じていない人が主の晩餐にあずかってはいけない。それで、主の晩餐式は、神さまを信じている人たちだけが参加するものだ、パンと杯を受け取るのだ、というふうに理解されることが多いのですが、ここで「ふさわしくないままで」というのは、先週お話しした聖書箇所に書かれていた問題のことが言われているのです。すなわち、先に食事の席についた人たちが食事を食べ尽くしてしまい、後で食事の席についた人たち、具体的には貧しい人たちのことですが、その人たちのことをないがしろにしたことが言われているのです。ですから、この「ふさわしくないままで」ということから、私たちは、自分が主にある兄弟姉妹の誰かをないがしろにしていないか?軽んじるようなことをしていないか?ということを考える必要があるのです。
もう一つ、「ふさわしくないままで」ということで考えたいことがあります。それは、私たちは、神さまの前に立つ時、誰一人、自分のことをふさわしい者と思う人はいないと思うのです。教会の礼拝に出席しておられたある方は、その方自身、クリスチャンでしたが、主の晩餐式が行われる度に、自分自身の過去の罪が思い起こされ、私はふさわしい者ではない、と言って、パンと杯を受け取ることをしませんでした。私はその方がどれだけ深く自分の罪を悔いておられるのか、そのことを考えると、とても敬服しますが、私たちも自分の罪を思い起こし、追求していくならば、誰もふさわしい者はいないのです。しかし、そういうふさわしいとは思えないような私たちのために、主は十字架にかかり、ご自分の命をささげてくださったのです。これはイエスさまがふさわしくないような私たちをふさわしい者としてくださった、神さまの前に立つことを赦してくださったということでもあるのです。ですから、自分ではふさわしい者とは思えない、そういう私たちをふさわしい者としてくださった神さまの愛と恵みを受け取る。それが主の晩餐にあずかることであり、パンと杯を受け取ることなのです。
28節に「自分をよく確かめたうえで」とあり、29、31節に「わきまえる」という言葉が出てきますが、これは自分で自分を確かめるとか、自分で自分をわきまえる、ということではありません。私たちはそれぞれ自分の物差しを持っています。その物差しで、人のことや自分のことを測ったりするわけですが、そういうことではないのです。神さまの物差し、神さまの基準で、自分をよく確かめる、自分をわきまえるのです。先ほどお話ししましたように、自分の物差しで自分を測るなら、私たちは誰も神さまの前に立つことはできない、神さまの前にふさわしい者はいないのではないでしょうか。しかし、神さまの物差しではそうではありません。神さまの恵みによって、私たちは神さまの前に立つことができるようにしていただいた。神さまの恵みによって、神さまの前にふさわしい者としていただいたのです。

(むすび)
「わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです」(31、32節)。今日の箇所の中で、裁きとか、裁かれるという言葉が出てきました。神さまの裁きというと、大変恐ろしいことのように思えますが、ここで言われている裁きというのは、神さまの判定と言ったらよいと思います。神さまが良しとされることではない、神さまが喜ばれることではない。そういう意味で言われています。私たちの日々の歩みはどうでしょうか?神さまが良しとされることではないこと、喜ばれることではないこと、そういうことが度々あると思います。そして、そのことを神さまから示されることもあるでしょう。そのことについて、ここに「主の懲らしめ」とあります。懲らしめというと、あまり今の時代、馴染まない言葉ですが、別の訳では、「訓練」(岩波訳)、「教育」(田川訳)となっています。私たちは神さまの訓練を受けながら、神さまから教育されながら歩んでいくのです。右にも左にも曲がりそうになるそういう私たちですが、神さまの言葉に聞きながら、何が神さまの前に真実なことなのか、善いことなのか、追い求めていきたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
主の晩餐の恵みを感謝します。主は十字架におかかりになる直前、ご自分の弟子たちと最後の晩餐を持ち、パンと杯を通して、ご自分が私たちの罪の救いのために十字架におかかりになることを示されました。私たちは主の晩餐を持つ度に、主の十字架の救いを思い起こし、主が再びおいでになるまで、主の死、主の十字架の救いを告げ知らせます。
ふさわしくないままで、という言葉を聞くと、自分は果たして、神さまの前に立つことのできるような者なのだろうか?と心配になりますが、ふさわしくないと思える私たちをふさわしい者としてくださった神さまの愛と恵みに目を向けて、主の赦しがどれだけ大きなものであったのかを思い知る者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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