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2020年4月5日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「あなたは私と一緒に楽園にいる」

2020年4月5日(朝・夕)礼拝説教 「あなたは私と一緒に楽園にいる」

2020年4月5日 週報(クリックすると別ウィンドウに表示されます)

聖書―ルカによる福音書23章26~43節

(はじめに)

 今日は教会暦、教会の暦では「棕櫚(しゅろ)の主日」と呼ばれる日です。イエス・キリストがエルサレムに入城され、キリストを慕う人々がしゅろの枝を持って歓迎したという日です。最近の聖書翻訳では「なつめやしの枝」(ヨハネ12章13節)と訳されるようになりましたから、「なつめやしの主日」と言ってもよいかもしれません。それではなぜ、人々はイエス・キリストを歓迎したのでしょうか?それは人々が私たちのメシア、救い主が来た、と思ったからです。私たちもイエス・キリストが救い主であると知っています、信じています。ですから、私たちのところにこの方がおいでになったら、エルサレムの人々と同じように、歓迎するでしょう。
 けれども、人々はイエス・キリストが救い主であると信じてはいましたが、救いということがどういうことであるか、よく分かっていませんでした。イエス様がお示しになった救いとは、違うものを救いと考えていたのです。人々の考える救いというのは、自分たちの願うことが実現すること、そして、それを実現させてくださる方がこのイエスという方なのだ!と考えていたのです。だから、今日お読みしました聖書の場面、すなわち、イエス様が十字架におかかりになる、そこには、イエス様がエルサレムに入城した時に歓迎した人たちはいなかったのです。いいえ、もしそこにその人々がいたとしても、彼らはイエスという人は私たちの救い主でも何でもない、十字架の刑罰を受ける哀れな男に過ぎない、とただ見ていただけだったのです(35節)。
 
(聖書から)

 今日は受難週の第一日目です。受難というのは、イエス・キリストが十字架におかかりになったことを意味します。イエス様は十字架におかかりになるために、ご自分がその十字架を担わされ、カルバリの丘へと向かいました。その途上のことが今日お読みしました聖書に書かれていました。アフリカのキレネの出身のシモンという人がイエス様がおかかりになる十字架を一緒に担わされることになりました。そのことが書かれている聖書の箇所を読んでみます。
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
 ここには人々がキレネ人シモンを捕まえて、十字架を背負わせた、とあります。他の聖書の箇所では、ローマの兵士たちによって十字架を背負わされた、と書かれています。ですから、兵士たちが人々にシモンを連れて来るように、と命じたのかもしれません。イエス様が重い十字架を担いでいた。私も手伝ってあげよう。シモンはそういう気持ちで十字架を一緒に担ったのではありませんでした。無理やり、強いられてのことでした。どうして、私が見ず知らずの人のためにこんなことをしなければならないのか!そういう気持ちだったのではないでしょうか。
 今日お読みしましたルカによる福音書ではシモンについて、このように書かれていました。「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」。イエス様の後ろから運ばせた、とあります。キレネ人シモン、この人は無理やり、強いられて十字架を背負わされたのです。それもイエス様の後ろから十字架を運ばされた、というのです。
 実はイエス・キリストを信じて生きるというのは、こういうことなのです。イエス様の後に従って十字架を背負う。ある時、主イエスの弟子であるペトロはイエス様から、私を何者と思うのか?と尋ねられて、このように答えました。「あなたはメシアです」(マルコ8章29節)。これは、あなたは救い主です!という立派な信仰告白でした。ところがすぐその後で主がご自分の身に起こる十字架と復活の出来事について語られると、ペトロが主をいさめ始めます。ペトロは私のイエス様が十字架にかかる、刑罰を受けるなど、考えられないと思ったのでしょう。私の尊敬する、素晴らしいお方にそんなことがあるはずはありません!と言いたかったのでしょう。ところがそのペトロに向かって、主はこう言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8章33節)。
 この「引き下がれ」という言葉を別の訳では「私の後ろに失せろ」(岩波訳)と訳しています。イエス様の後ろに、ということです。ペトロはイエス様が十字架と復活を語られた。救いのみわざを語られたのに、人間的な思いでそれを打ち消そうとしたのです。そのことに対して、主は、私の後ろに引き下がりなさい、と言われたのです。自分の思いではなく、私に従いなさい、と言われたのです。イエス様はすぐその後でこう言われました。「わたしの後に従いたい者は・・・」(マルコ8章34節)。キレネ人シモン、彼は自ら進んで十字架を担ったわけではありませんでした。主の十字架を無理やり担わされ、主の後に従う者とされていったのです。そして、それがどんなに大きなことであるのか、恵みであるのか、彼は後に気づかされます。
 主が十字架におかかりになる。その様子を見ていた婦人たちが嘆き悲しんでいた様子もこの聖書の箇所に記されていました。けれども主は嘆き悲しむ婦人たちにこう言われました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」(28節)。イエス様が十字架にかかり、死ぬことになる。なぜ、あの方がそのようなことになるのか・・・。そう思って彼女たちは泣いたのでしょう。しかし、主は自分のために泣け、と言われました。イエス様への同情ではなく、このイエス様の十字架を通して、神様の前に自分という人間がどのような者であるかを知るように、ということです。
 主は十字架におかかりになりました。主が十字架のうえで祈られた祈りの言葉がここに書かれています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)。ここに言われている「彼ら」とはだれのことでしょうか?私たちのことです。これは主が私たちのためになさった執り成しの祈りです。自分が何をしているのか知らない、本当の自分を知らない、自分の罪も知らない。そういう私たちのために主は祈られ、主は十字架にかけられたのです。
 主が十字架につけられている場面、その絵画を見たことがあります。真ん中にイエス様、その両脇に一緒に十字架につけられた犯罪人の姿があります。一人の犯罪人はイエス様にこのように言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。もう一人の犯罪人はそれに対して、こう言います。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40、41節)。
 イエス様の両脇の犯罪人、彼らのイエス様に対する態度は対照的です。最初に主に話しかけた犯罪人は、自分と私たちを救ってみろ、と言いましたが、この人にとって救いとは自分の願いを実現することでした。一方、もう一人の犯罪人、彼はイエス様について、こう言っています。「この方は何も悪いことをしていない」。さらにこのようなことも言っています。これはイエス様に向けての言葉でした。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。
 なぜ、このようなことが言えたのでしょうか?ある牧師先生は、この犯罪人はイエス様の祈りを聴いていたからだ、と言われます。イエス様の祈り、あの執り成しの祈りです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。この祈りを聴いて、彼は分かったのです。自分の罪が、そして、救いが。十字架のうえで、死を前にして、この方は私たちのために祈ってくださっている。この方こそは真実の人だ、この方こそは本当の救い主だ。だから彼は主に対して、このように言うことができたのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。主は彼にこう言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。

(むすび)

 罪とは何でしょうか?罪とは本来いるべきところにいないことです。聖書が示す罪とは「的外れ」ということです。神様という的から外れてしまっている、離れてしまっている。私たちを造られ、愛されている方から離れてしまっている。それが聖書が示す罪ということです。救いとは何でしょうか?最初にお話ししました。エルサレムに入城したイエス様を迎えた人々、彼らはイエス様を救い主と信じていました。しかし、彼らの考える救い、それは自分たちの願うことを実現することでした。ただいまお読みしましたイエス様の言葉に救いが語られていました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。イエス様は私と一緒に、と言われました。救いとは、イエス様と一緒にいることです。私たちを造られ、愛されている方と一緒にいることです。イエス様の十字架、それは神様と私たちが一緒にいるようになるための執り成しの出来事です。
 私たちはイエス様と一緒にいる。これが救いです。このことが永遠に続くのです。たとえ地上での生涯が終わっても、ずっとイエス様と一緒なのです。それが永遠の命に生きるということです。今日は、受難週、棕櫚の主日の礼拝を一緒に行なうことができて感謝です。教会の建物にみんなで集まることはできませんでしたが、イエス様と一緒にいる私たちはイエス様にあって一つにされて礼拝を行なったのです。主の救いに感謝して歩みましょう。

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