2023年7月30日「主の裁きを望む信仰」
聖書―詩編26編1~12節
(はじめに)
詩編26編をお読みしました。この詩編は、「ダビデの詩」と書いてありますように、イスラエルの王ダビデの詩、ダビデの歌と言われる詩編の一つです。このような言葉から始まっています。
26:1 【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
「主よ、あなたの裁きを望みます」。この詩編の詩人はこのようなことを言っています。裁きを望みます。そして、それに続いて、私は完全な道を歩いて来た。神さまを信頼して、よろめくようなことはなかった、とも言っています。この詩人は、自分は立派に生きてきた。自分は裁かれるようなことは何一つしなかったと言っているのでしょうか?
私は、まるで自分の正しさを誇っているような言葉が書かれている詩編が、聖書の中にあるというのはどういうことなのだろうか、と思っていましたが、これを読んでいくうちに、どうもこの詩人が言っていることは、自信があるとか、自分には罪がないとか、そういうことを言っているのではないことが分かってきました。改めて思いますが、聖書の言葉というのは、奥深いものです。読み進めていくことで、また繰り返し、読んでいくことで、分かってくることがあるのです。どうか、皆さんも、聖書は分厚い書物ですが、少しずつでもよいですから、じっくりと時間をかけて、読んでみてください。すると、そこから、分かること、見えてくることがあります。
(聖書から)
2節をお読みします。
26:2 主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。
詩人は、このように言います。神さまに対して、この私を調べてください、試みてください、と言います。2節の後半の言葉は「はらわたと心を火をもって試してください」となっていますが、口語訳聖書では、「わたしの心と思いとを練りきよめてください」となっています。「はらわたと心」というのは、私たち人間の内側、内面のことが言われているようです。
ところで、この詩人は、神さまに、私を調べ、試みてください、と言いました。これは、自分には罪がない、自分は大丈夫だ、という自負心から言ったのではありません。私は数か月ごとに、病院に行きます。それは、検査と診察のためです。それによって、お医者さんから、私の体の健康状態を調べていただくわけですが、それと同じように、この詩人は、神さまのもとに行き、神さまから自分を調べていただいたのです。私たちの信仰の歩みというのは、検査と診察、つまり、自己点検ということが大切です。しかし、自分で自分を点検するだけでは不十分です。なぜなら、自分では気づかないことが幾つもあるからです。自分のことは、自分が一番分かるか、というと、そうではないのです。そういう私たちは、すべてをご存じである神さまに自分を点検していただくのです。自分のはらわたと心、つまり、自分の心の中のこと、自分の生き方、考え、それが神さまの前にどうなのか、良いものであるのか、点検していただくのです。ではどのように神さまに点検していただくのかというと、聖書を通して語られる神さまの言葉から、自分を点検していただくのです。
続いて、3節です。
26:3 あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。
詩人は、神さまの慈しみ、そして、神さまのまこと、真実、そこに目を向けて歩んできた、と言っています。先ほどは、聖書から自分を点検するということをお話ししましたが、聖書から、自分を知るだけではなく、神さまを知ることができるのです。それによって、私たちは、自分が神さまの前に一人の罪人であること。しかし、その私が神さまの愛と真実によって救われ、生きる者とされた。その恵みを知るのです。
6、7節には、このようなことが書かれていました。
26:6 主よ、わたしは手を洗って潔白を示し/あなたの祭壇を廻り
26:7 感謝の歌声を響かせ/驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
6節は、礼拝に備える様子が書かれています。そして、7節は、礼拝とは何か、ということ、礼拝の目的が語られています。「感謝の歌声を響かせ」。これは、私たちが毎週礼拝で行っている賛美です。但し、賛美ということでは気を付けなければならないことがあります。それは、私が素晴らしい賛美をして、誰かに聴かせよう。賛美をした私が誰かからほめられよう、ということが目的ではないのです。賛美は誰に向かって行うものでしょうか。賛美は神さまに向かって行うものです。賛美をささげる、と言いますが、賛美は神さまにささげられるものです。神さまが素晴らしいお方であることをおぼえて、神さまに向かって賛美をささげるのです。7節の後半には、「驚くべき御業をことごとく語り伝えます」とあります。神さまの驚くべきみわざをことごとく語り伝える。私たちの賛美は、神さまのみわざを語り伝えるものなのです。神さまのみわざを語り伝えるというと、礼拝においては説教の役割と考えるかもしれません。しかし、説教だけではないのです。私たちは、賛美によって、神さまのみわざを語り伝えるのです。礼拝の目的、賛美の目的をここから教えられます。
8節をお読みします。
26:8 主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。
「あなたのいます家」、そして、「あなたの栄光の宿るところ」とありました。これは、私たちにとっては、教会と考えたらいいでしょう。教会は、神さまのおられるところ、神さまの栄光の宿るところなのです。教会について、新約聖書から教えられることは、キリストの体ということです。そして、私たちは、そのキリストの体の各部分です。
私たちは、教会が決して、完全ではないことを知っています。教会が完全ではない、というのは、あの人、この人のことだけではありません。教会の体の一人である自分自身が完全ではないということです。しかし、そういう私たち教会に神さまがおられる、神さまがその栄光を表されるということが言われているのです。私たちは不完全です。罪深い者です。それにもかかわらず、そこに主がおられる、主がご自分の栄光を表される。栄光を表すというのは、神さまの愛と恵みを表されるということです。不完全な、罪深い私たちを用いられる神さま、共におられる神さま。そのことを喜びたい、感謝したいと思います。
11節をお読みします。
26:11 わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。
この11節の言葉から分かることは、私が、自分の力で完全な道を歩いてきました、ということではなく、私が完全な道、つまり、神さまの道を歩んでいくことができるために、神さまが私を憐れんでください、贖ってください、と言っていることです。ですから、最初にお読みしました「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません」というのも、神さまの憐れみ、神さまが贖ってくださったから、私は、ここまで歩むことができた、と言っていることがお分かりになると思います。主の憐れみ、贖い。私たちは、イエスさまの十字架の出来事を知っていますから、そこからこの詩編を理解するならば、主の憐れみ、贖いというのは、イエスさまの十字架による罪からの救いということになります。私たちは、神さまの前には、一人の罪人ですが、イエスさまの十字架によって、罪から救われ、「神さまのもの」として生きる者とされました。その感謝をもって歩んでいきましょう。
(むすび)
今日の詩編の最後の言葉です。
26:12 わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。
主の救いによって、私は真っすぐな道、神さまの道を生きることができるようになりました、と言っています。そして、最後にこう言っています。「聖歌隊と共にわたしは主をたたえます」。以前の訳では、「わたしは会衆のなかで主をたたえましょう」(口語訳)と訳されていました。普通は「会衆」と訳される言葉なのですが、新共同訳聖書では、「聖歌隊」と訳しました。もしかすると、この詩編の翻訳者は、礼拝に集う人たち、会衆とは、神さまを賛美する人なのだ。そういう思いから、「聖歌隊」という言葉で言い表したのかもしれません。これは、翻訳者の信仰と言えるでしょう。
私は、この「聖歌隊と共にわたしは主をたたえます」という言葉から、別の詩編の言葉を思い起こしました。その詩編の言葉を読んでみます。
102:19 後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
「主を賛美するために民は創造された」。この言葉から教えられることは、神さまが私たちを創造された、造られた目的ということです。それは、神さまを賛美するためだった、ということです。私たちは神さまを賛美するために造られた。神さまの救いのみわざを心から喜び、感謝し、賛美をささげましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
「主よ、あなたの裁きを望みます」と詩編の詩人は言いました。それは、私は裁かれるようなことはしていない、完全な道を歩んできた、という自負心から言った言葉ではありませんでした。主の憐れみ、贖いによって、私は救われた。主の完全な道を歩ませていただいた。その感謝と喜びからの言葉でした。
主の救いを知る私たちも主への賛美をささげて歩む者でありますように。主の救いを語り伝える者でありますように。どうぞ、導いてください。
「主よ、あなたの裁きを望みます」。主の完全な、真実の裁きによって、主の愛と義が表されますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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