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【礼拝説教】2021年1月3日「だれがいちばん偉いか」

2021年 1月 3日(朝・夕)礼拝説教「だれがいちばん偉いか」マルコによる福音書9章30~37節

聖書―マルコによる福音書9章30~37節
(はじめに)
新しい年が始まりました。新年を迎えますと、昨年はいろいろあったけれども、今年こそは・・・、という話がよく聞かれます。確かに2020年は新型コロナウイルスの世界的感染拡大で大変な年になりましたから、私たちは今年こそは平穏な年であるように、という願いを持ちます。しかし、昨年も、今年も、いつの年も、それは神さまから与えられた大切な年です。順境であれ、逆境であれ、そこにも変わることなく、インマムエルの主が、神さまが共におられます。私たちはそのことをおぼえ、神さまが与えてくださる平安の中を歩んでまいりましょう。

(聖書から)
お読みしました聖書はマルコによる福音書9章30節からです。新共同訳聖書の小見出しでは「再び自分の死と復活を予告する」とあります。私たちの救い主であるイエスさまは二千年前に人として私たちの世においでくださいました。そして、私たちを罪から救うために、十字架にかかり、死なれ、三日目に復活されました。イエスさまはそのことが起こる前にご自分の弟子たちに予告していました。
イエスさまと弟子たちはガリラヤを通って、つまり、エルサレムへ向かって歩まれました。それは十字架への道です。イエスさまは苦しむ人々を助け、癒し、歩まれましたが、それは神さまの愛をお示しになるためでした。ところが、人々はイエスさまを英雄のようにだけ見るようになりました。イエスさまが「人に気づかれるのを好まなかった」(30節)とあるのはそういうことでしょう。
一方、イエスさまといつも行動を共にしていた弟子たちについて、このようなことが書かれています。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
イエスさまの死と復活。このことについて、弟子たちは聞いていました。しかし、その意味は分かりませんでした。分からないからといって、イエスさまに尋ねることはしませんでした。なぜかというと、ここには「怖くて尋ねられなかった」とあります。イエスさまの身に間もなく大変なことが起こるのではないか?そういうことは想像していたのでしょう。でも、それを聞くことは怖くてできなかったのです。
この時の弟子たちのことを考えますと、私たちもこれと同じようなことがあるのではないかと思います。自分にとって都合の悪いこと、納得できないこと、そういうことは聞きたくありません。避けて通りたいと思います。弟子たちにとってイエスさまは人々が描いていた救い主のイメージとあまり変わらない。常に人々を助け、癒し、力強い、頼もしいお方。そのお方が捕らえられ、殺され・・・、ということは考えられない、考えたくもない。しかし、弟子たちがそう思っていても、イエスさまと弟子たちの足はエルサレムへと向かっていました。十字架への道へと向かっていました。
イエスさま一行がカファルナウムというところに来たときの話が33節以下に書かれています。家に着いてから、イエスさまは弟子たちにあることをお尋ねになりました。それは「途中で何を議論していたのか」(33節)とありますが、旅の途中で、弟子たちが熱心に議論している様子を知っておられたのでしょう。これについて、弟子たちは何と答えたでしょうか。34節にはこのように書かれています。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
弟子たちは何も答えなかったようです。「彼らは黙っていた」とあります。なぜ、彼らはイエスさまに答えられなかったかというと、その議論の中身です。そのことをイエスさまには知られたくなかったのです。なぜなら彼らが行っていた議論というのは、誰が一番偉いか、ということだったからです。誰が一番偉いか。別の訳の聖書には、「誰が大いなる者か」(岩波訳)、「誰がより大きいのか」(田川訳)とあります。イエスさまの弟子たちの間での話ですから、この「偉い」とか、「大きい」というのは、誰がイエスさまの弟子としてふさわしいとか、優れているという話だったと思います。
そういう議論をしていたにも関わらず、なぜ、彼らはイエスさまにその話をすることができなかったのでしょうか?イエスさまはそのような議論を決してお喜びにはならない。良いこととは思われない。そういうことは感じていたのだと思います。私たちも友人とか、家族とか、普段からよく接している人たちといると、その人が何を喜びとしているか、何を嫌っているのか、そういうことが分かってきます。ですから、良いこころざし、良い考えを持っている人と接していると、その影響を受けていきます。何を求めたらいいのか、何を大事にしたらいいのか。身を持って教えられます。人との出会いはとても大切です。
弟子たちも、イエスさまの前でこんなことは話せない。黙っていただけでなく、ハッとさせられたかもしれません。自分たちはいったい何を議論していたのだろうかと恥ずかしく思ったかもしれません。私たちも聖書を読んでいて、そういう気づきということは何度も与えられているのではないでしょうか。聖書を読み、自分の生き方、生活と照らし合わせていくと、自分が神さまのお心、お考えと離れていたことに気づかされます。だから、毎日が悔い改めです、生き方の方向転換です。
さて、イエスさまは実は弟子たちの議論の中身はご存じであったようです。それでこの後、彼らの関心事、誰が偉いか、大きいか、そのことに対して、お話しされました。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
イエスさまは彼らが、誰が偉いか、大きいか、ということを言っていたのに対して、「いちばん先になりたい者」と言われました。一番先、先頭に立ちたい。弟子たちの中でリーダーになりたい。彼らの心をイエスさまはよくご存じでした。ではどうしたら、一番先になることができるか?イエスさまはこうお答えになっています。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。すべての人の後になるように、すべての人に仕える者になるように、ということでした。
仕える者、原語ではディアコノスと言います。これは奉仕者、執事とも訳されます。イエスさまの弟子とは仕える者なのです。イエスさまご自身が仕える者としてこの世においでになりました。イエスさまに倣って、私たちも仕える者として生きるのです。イエスさまが弟子たちの足を洗うという場面が聖書の中にあります。足を洗うという行為は当時、奴隷の行う仕事でした。イエスさまは弟子の足を洗いになり、こう言われました(ヨハネ13章14、15節)。
13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
互いに足を洗い合うとは、互いに仕え合うということです。イエスさまの弟子とは、互いに仕え合う者です。先ほど、ディアコノスとは、奉仕者、執事と言いましたが、イエスさまを主と信じる人は皆、仕える者、互いに仕え合う者なのです。間もなく教会の総会が行われると思いますが、執事に選ばれた人だけが仕えればよいというのではありません。私たちは互いに仕え合うのです。
今日の箇所に戻ります。イエスさまはもう一つのことをお示しになりました。そのことが36、37節に書かれています。
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
子供というと、可愛い、愛らしい、というイメージがあります。しかし、聖書の舞台であるユダヤにおいては、子供というと、未熟だとか、愚かだとか、否定的なイメージです。それは弟子たちが求めていたものとは正反対です。そういう子供をイエスさまは手に取り、真ん中に立たせ、抱き上げられた、というのです。そして、主は言われます。このような子供の一人を受け入れる者は私を受け入れることであり、私を受け入れる者は私をお遣わしになった方、すなわち、神さまを受け入れることであると。

(むすび)
ユダヤにおいて、子供というのは愚かな存在、小さな存在でした。そういう人たちを受け入れるように、と主は言われました。弟子たちはここで深く反省して、間違ったことを求めることや目指すのは止めて、イエスさまが言われるとおり、この世において、愚かな存在、小さな存在の人たちを受け入れることに努めようと思ったでしょうか?もしそうだとしたら、イエスさまの言われたことを正しくは理解していないと思います。なぜなら、イエスさまが言われた子供というのは、自分とは別のあの人やこの人のだけのことではないからです。子供というのは、弟子たち自身のこと、そして、私たち自身のことだからです。
私たちは皆、神さまの目には愚かで小さな存在なのです。神さまの前には、私は子供に過ぎない。いいえ、神さまの愛される子供です。そういう私たちを主は愛し、受け入れておられるのです。そして、私たちに主はご自分の働きを委ねられたのです。誰が偉いか、大いなる者かを論じ合う生き方から、互いが神さまに愛されている者であることをおぼえ、仕え合い、愛し合う生き方へ。新しい年もこのことに励んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
新しい年が始まりました。この年も主の恵みの年として、主のみ言葉に聴きながら、主の指し示す道を歩んでいく者としてください。
新型コロナウイルスの感染拡大は続いています。医療の最前線で働いておられる方々、また病に苦しむ方々のうえに主の助け、癒しがありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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