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【週報巻頭言】2023年9月17日 主が許してくだされば(一コリント16章1~12節)

わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。(一コリント16章7節)

パウロはコリントの教会の人々に向けて、このように言っています。「主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています」。「主が許してくだされば」とあります。パウロ自身の思いは、コリントの教会に行きたい。そして、教会のみんなと会いたい、ということでした。しかし、それについて、「主が許してくだされば」とあります。自分の思い、それ以上に、パウロが大切にしたことは、主の思い、主のみ心です。

私たちは、自分の思いが実現することを願い、祈ります。ある時は、その思いが実現することがあります。またある時は、残念ながら、その思いが実現しないこともあります。この前、夏の高校野球の決勝戦がありました。試合内容はもちろん素晴らしかったのですが、どちらの選手も監督も、それぞれに素晴らしいコメントをしていました。負けたチームの監督は「負けた時に人の価値が出る」ということを選手たちに言っていたそうです。この「負けた時」ということですが、これは先ほどの話で言いますと、自分の思いが実現しなかった時、叶わなかった時ということで考えることができると思います。自分の思いが実現しなかったら、私たちはどうするでしょうか。ふてくされてしまうでしょうか。神さまに祈ってもしょうがない、と思うでしょうか。パウロの考えはこうでした。「主が許してくだされば」。これは、あきらめの言葉ではありません。私の人生の主導権は誰が持っているか、そのことを表わしているのです。私たちの人生の主導権、それは誰が持っているでしょうか。それは、自分ではないのです。神さまです。最終的には私たちは、私たちを導いてくださる神さまに、自分の人生を委ねていくのです。神さまが最も良きようにしてくださると信じて委ねていくのです。

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