「安息日の主」マタイによる福音書12章1~8節 2024/ 5/12 SUN.
聖書―マタイによる福音書12章1~8節
(はじめに)
先週お読みした聖書の言葉には、イエスさまが与える休み、安らぎということが書かれていました。そして、そのすぐ後の今日の聖書個所では、安息日の話題が出ています。この安息日というのも、休みを意味する言葉です。安息日というのは、金曜日の日没、午後6時頃から、土曜日の日没、午後6時頃までのことです。聖書の舞台であるユダヤの人々はこの日を安息日として守りました。
創世記2章1~3節をお読みします。
2:1 天地万物は完成された。2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
創世記の初めには、神さまの天地創造の記事が書かれています。神さまは、第七の日に天地創造のわざを完成され、ご自分の仕事を離れ、安息された(口語訳、聖書協会共同訳では、「休まれた」)、ということが書かれています。第七の日というのが、土曜日のことです。その日に神さまはご自分の仕事を休まれたから、私たちも休もう、ということで、安息日を休みの日としました。
さらに、十戒と言われる神さまの戒め、これは神さまがモーセに示されたものですが、その戒めにも、安息日のことが書かれています(出エジプト記20章8~11節)。
20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
ここには、安息日の意味が示されています。それは、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから」とありますように、神さまの天地創造のわざをおぼえ、感謝するためなのです。神さまに感謝する。私たちは、神さまを礼拝することでその感謝を表していくのです。
今、キリスト教会は、土曜日ではなく、日曜日を、神さまを礼拝する日としています。安息日とは言わないで、主の日と言っています。それは、神さまのみ子イエス・キリストが、私たちを罪から救うために十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活された。その日が、日曜日だったからです。日曜日を主が復活された日、主の日と呼び、その日に、神さまの創造のわざを感謝すると共に、神さまのみ子イエス・キリストによる救いのわざを感謝する。それが、礼拝なのです。
(聖書から)
さて、今日の聖書個所を読んでいきます。1、2節です。
12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
イエスさまと弟子たちは、ある安息日に麦畑を通られました。弟子たちはお腹が空いていた、ということで、麦畑の麦の穂を摘んで食べ始めました。すると、その様子を、ファリサイ派の人たちが見ていました。ファリサイ派の人たちは、神さまの律法を忠実に守ることに励んでいました。彼らは、弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことについて、イエスさまにこのように言っています。「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」。
「安息日にしてはならないことをしている」と言いました。何が「してはならないこと」だったのでしょうか?麦畑で麦の穂を食べたことがしてはならないことでしょうか?いいえ、麦の穂を摘んだこと、それがしてはならないことだったのです。麦の穂を摘むということ、それは、労働に当たる、仕事をしていることになる。安息日は、労働をしてはならない日、仕事をしてはならない日なのに、あなたがたは、安息日の掟に背いてしまった、とファリサイ派の人たちは言ったのです。
イエスさまの時代、ユダヤの宗教指導者たちは、安息日を守るために、安息日の掟を幾つも作りました。それは、39の掟があり、それを細分化して、39の掟一つずつにさらに39ずつの掟を作ったというのです。ですから、安息日の掟というのが、39に39を掛けて、1,521の掟があったそうです。ところが、本来、安息日を守り、神さまを礼拝する、感謝する。そのための掟であったのが、安息日には、労働をしてはいけない、仕事をしてはいけない・・・。掟の意味、目的が違う方向へ向かってしまったのです。
イエスさまは、ファリサイ派の人たちがご自分の弟子を批判したことに対して、反論されました。3節からお読みします。
12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
このイエスさまの反論ですが、ここで注意したいことは、「読んだことがないのか」と言われていることです。イエスさまは、ファリサイ派の人たちに、何を読んだことがないのか、と言われたのでしょうか?5節にありますように、「~と律法にあるのを読んだことがないのか」と言われています。あなたがたは、律法には、つまり、聖書には、こう書いてあるのを読んだことがないのか、と言っておられるのです。イエスさまは、聖書の言葉を引用して反論されました。
ユダヤの宗教指導者たちは、安息日を忠実に守るために、ということで、より具体的に、幾つもの細かい掟を作っていきました。けれども、先ほどお話ししましたように、本来の安息日の意味、目的から離れてしまったのです。神さまを礼拝するため、感謝するため、ということではなく、労働をしない、仕事をしない。あれもこれもしない・・・。本来の意味、目的から離れてしまったのです。そこでイエスさまは、彼らに対して、聖書にはこう書いてあるではないか?あなたがたは知らないのか?そのように言うことによって、彼らが安息日の正しい理解をすることができるように導こうとされたのです。
6、7節をお読みします。
12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
「神殿よりも偉大なものがここにある」と主は言われました。前の口語訳聖書では、「宮よりも大いなる者」と訳されていました。新共同訳聖書や比較的新しい訳では、平仮名で「もの」となっていますが、古い訳では、漢字で「者」となっていて、ここで言われていることは、イエスさまご自身のことであるという理解になります。それは間違いではありませんが、最近の聖書学の研究では、漢字ではなく、平仮名で「もの」と訳す方が正確なのだそうです。ですから、「偉大なるもの」、これはイエスさまご自身というよりも、イエスさまが語られたこと、イエスさまがなされたこと、そのように理解していただけたらよいかと思います。
それでは、「神殿よりも」、「宮よりも」、というのは何かというと、ユダヤの宗教指導者たちの体制とか、あり方を指していると思います。彼らによって、聖書が、神さまの律法が、誤った解釈、誤解されていった。しかし、イエスさまこそは、聖書を、神さまの律法を正しく教えてくださる方なのです。さらに、イエスさまは、彼らにとどめを刺すようにして、一つの言葉を引用されました。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。これは、旧約聖書・ホセア書6章6節の言葉の引用です。新約聖書はギリシア語で書かれたものです。一方、旧約聖書はヘブライ語で書かれたものです。ここに書かれている旧約聖書の言葉は、本来はヘブライ語ですが、それをギリシア語に訳していく段階で、少し言葉が違っているところがあります。ここで私たちは、ヘブライ語から直接日本語に訳された言葉でも読んでみましょう。旧約聖書・ホセア書の言葉を開いてみましょう(ホセア書6章6節)。
6:6 わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。
「わたしが求めるのは憐れみ」、神さまが求めるのは憐れみ、というところが、「わたしが喜ぶのは愛」、神さまが喜ぶのは愛、となっています。「憐れみ」という言葉が「愛」となっているという違いがあります。また、ホセア書6章6節の後半の部分については、イエスさまは語られなかったかもしれませんが、「わたしが喜ぶのは・・・神を知ること」とあります。神さまが求めておられること、喜ばれること、それは、憐れみ、愛。さらには、神さまを知ること、と書かれていました。あなたがたは、憐れみ、愛によって歩んでいるのか?あなたがたは、自分の信仰の対象である神さまを知らないで、いや知っているつもりで歩んでいるのではないか?だから、あなたがたは、人々を罪に定めたり、裁いたりしているのではないのか?そのような語りかけのように聴こえます。
(むすび)
今日の最後の言葉をお読みします。
12:8 人の子は安息日の主なのである。」
ここで「人の子」というのは、イエスさまご自身のことを指していると思います。イエスさまこそは、安息日の主なのです。イエスさまこそは安息日の意味を正しく教えてくださる方。そして、イエスさまこそは安息日に礼拝される方です。神さまが求められるのは、喜ばれるのは、憐れみ、愛と言いました。私たちは、神さまから、憐れみに生きること、愛に生きることを求められているのです。けれども、私たちは、憐れみ、愛、そのことを本当に知っているでしょうか?私たちがまず知るべきこと、それは自分自身が、神さまを知ることです。神さまの憐れみを知ること、神さまの愛を知ることです。だから、主はこう言われたのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11章28節)。
私たちは、主の日に神さまを礼拝します。それは、私たちが、神さまのもとに行って、神さまの憐れみを受けている、神さまの愛を受けている。そのことを知り、喜び、感謝し、この憐れみ、この愛に生きていこうと決心して歩みだしていく。そういう出来事が起きる。それが礼拝なのではないでしょうか。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
今日も私たちをあなたの礼拝へと招いてくださり、私たちが、神さまの憐れみ、愛によって生かされていることを教えてくださり感謝します。
新しい週の歩みも、あなたのことを知り、あなたの憐れみ、あなたの愛に促されて、押し出されて、歩んでいく一人一人でありますようにお願いします。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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