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「初めに神は」創世記1章1~5節 2024/ 5/26 SUN.

「初めに神は」創世記1章1~5節 2024/ 5/26 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―創世記1章1~5節
(はじめに)
 聖書の一番初めに書かれている言葉は、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)という言葉です。この言葉から、私たちは、神さまがすべてのものを創造された、造られたことを知ります。ある牧師先生は、「初めに、神は・・・」。この言葉について、これは、神さまがすべての人間に対する愛を始められたことを意味する言葉です、と語っています。私は、その言葉を聴いて、聖書は、神さまからのラブレター、愛の手紙ということを思い起こしました。聖書とは、神さまから私たちに向けられた愛の言葉が語られている書なのです。ですから、私たちは、聖書を、神さまからの愛の言葉として、読んでいきたい、聴いていきたいと思うのです。

(聖書から)
 創世記1章1節の言葉、もう一度、お読みします。
1:1 初めに、神は天地を創造された。
 神さまがすべてのものを造られた。神さまが私たちを造られた。新約聖書にも、これと関連する言葉があります。併せて読んでみたいと思います(ヘブライ11章3節)。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
 神さまが天地を創造された、すべてのものを造られた、と言いますと、それは科学的ではない。そのように言われる方があります。聖書は、科学的ではない。確かに、聖書は科学の書ではありません。すると、聖書は、読む価値のないようなものでしょうか?ただいまお読みしましたヘブライ人への手紙では、神さまの天地創造について、このようなことが書かれていました。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され・・・」。
 ここで注意したいことは、「信仰によって」と言われていることです。「信仰によって」。つまり、聖書に書かれている天地創造というのは、「信仰によって」とありますように、信仰の視点から語られていることだということです。「信仰によって」。別な言い方をするならば、信仰というのは、神さまと私の関係ということです。信仰によって、神さまと私の関係において、私たちは、神さまが天地創造された、私たちを造られたことを知るのです。
 創世記1章2節には、このようなことが語られています。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 「混沌」とあります。私たちの教会で以前、使っていた口語訳聖書では、2節は、このように訳されていました。
1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 「地は混沌であって」というところが、「地は形なく、むなしく」となっています。私が初めて、旧約聖書を読んだのは、この創世記の言葉でした。私は小学生の高学年でしたが、教会学校で、旧約聖書の創世記を学ぶということで、それまで、聖書というと、幼稚園の卒園式の時にいただいた新約聖書しか持っていませんでしたが、旧約聖書も付いている聖書を親から買ってもらい、嬉しくなって、家に帰ってすぐに、その聖書を開いて創世記1章を読みました。神さまがすべてのものをお造りになった、と書いてあり、その後には、「地は形なく、むなしく」(口語訳)とありました。形もなく、むなしい。何にもない、ということが言われているのだろうか?と考えました。何にもないところに、神さまはすべてのものを造られたのか?これは驚き、感動でした。新共同訳聖書では、「地は形なく、むなしく」が「混沌」となっていました。新共同訳聖書が出版された時期というのは、私が神学校に行く直前の年だったと思います。混沌という言葉を読んで、これはまるで、今の世の中のようだと思いました。この世界は混沌としている。
それに続いて、「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。混沌、そして、闇。良い印象を持つことができない言葉です。しかし、混沌と闇、それに続いて、「神の霊が水の面を動いていた」と書かれていました。「神の霊」というのは、聖霊のことでしょうか。聖霊が、神さまの霊が混沌している中でも、闇の中でも、動いている、というのです。混沌、闇というと、何の希望も見いだせないような状態のように思えますが、そこに神さまの霊が動いている、働いている、というのです。何か、かすかな希望があるのでは?と期待させる言葉です。
これに続く3節の言葉をお読みします。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 「神は言われた」とあります。先ほどお読みしたヘブライ人への手紙11章3節には、このようなことが書かれていました。「この世界が神の言葉によって創造され」。神さまは言われた。神さまが言葉を発せられた。すると、すべてのものは創造された、造られた。神さまの言葉というのは、創造の言葉です、造り上げる言葉です。
3節では、神さまは、「光あれ」と言われました。すると、光があった、というのです。この後、4、5節も読んでみます。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 神さまは、光を見て、良しとされた、とあります。先ほど、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」ということについてお話ししました。混沌、闇。しかし、神さまは、混沌としたまま、闇のままにはなさらなかった、というのです。そこに「光あれ」と言われ、光を造られた。闇から光へ。光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた、とありました。「夕べがあり、朝があった。第一の日である」。これが、神さまの創造の第一日ということです。「夕べがあり、朝があった」。私たちは、一日を、朝があり、夕べがあった、と考えますが、ユダヤの民は、「夕べがあり、朝があった」。一日をこの順番で考えます。夕べがあり、朝があった。闇があっても、やがて光が来る。
ところで、創世記1章、創世記の冒頭の言葉については、新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭の言葉とよく似ていると言われます。ヨハネによる福音書1章1節以下を読んでみます(ヨハネ1章1~5節)。
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 ここには、初めに「言」があったということ、「言」は神さまと共にあった、ということ、「言」は神さまであった、ということが言われています。ここで言われている「言」というのは、イエス・キリストを指しています。イエス・キリスト、この方は、初めからおられた。神さまと共におられた。この方は、神さまであった、というのです。そして、「言」であるイエス・キリスト、神さまの言葉であるイエス・キリストについて、「言」の内に「命」があった。「命」は人間を照らす「光」であった、とも言われています。つまり、イエス・キリストは「言」であり、「命」であり、「光」であると言われているのです。
 今日お読みした創世記の個所では、「光」のことが言われていました。このヨハネによる福音書では、イエス・キリストが「光」であると言われていました。その「光」とは、どういう「光」であるのか、そのことも見ていきますと、「人間を照らす光」とあり、「光は暗闇の中で輝いている」ともありました。「人間を照らす光」。人間というのは、私たちのことです。イエス・キリストという方は、私たち人間を照らす光だというのです。私たちは、イエス・キリストという光に照らされて生きる存在だというのです。そして、「光は暗闇の中で輝いている」。闇の中、そこにも光がある。希望がある。なぜなら、闇と思えるところにも、イエス・キリストはおられる、私たちと共におられるからです。
 私たちは、イエス・キリストを信じる前は、自分という人間のことを本当には知りませんでした。そういう私たちは、イエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストという光に照らされることによって、自分の本当の姿に気づかされていくのです。自分の本当の姿、聖書から、二つのことを知らされます。一つは、自分が、闇の中にいた者、神さまの前には、一人の罪人に過ぎない者ということです。もう一つのこと、それは、自分が、闇から救い出された者、神さまに愛され、赦され、生かされている者であるということです。このことについて、フィリピの信徒への手紙3章8、9節の言葉からも聴いてみたいと思います(フィリピ3章8、9節)。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
 これは、使徒パウロの言葉です。パウロはキリストに出会った。キリストを信じる者になった。その喜びを表している言葉です。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」と語っています。キリストを知ることのあまりの素晴らしさ。そして、「キリストの内にいる者と認められるため」とあります。私はキリストの内にいる者。この言葉については、口語訳聖書でも見てみたいと思います(ピリピ3章8、9節・口語訳)。
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
 口語訳聖書では、新共同訳聖書で「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」とあるところが、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」と訳されています。そして、新共同訳聖書で「キリストの内にいる者と認められるため」とあるところが、「キリストのうちに自分を見いだすようになるため」と訳されています。キリストの内に自分を見出す。つまり、キリストに出会うことによって、自分を見出す、本当の自分を知るということです。

(むすび)
 今日は創世記の最初の箇所をお読みしました。神さまがすべてのものを造られた方であること。私たちは神さまによって造られた者であること。その私たちは、神さまの言葉を聴きながら歩んでいくのです。神さまの言葉は、愛の言葉、創造の言葉です。神さまの言葉によって、私たちは、自分が神さまに愛されていることを知り、自分もまた愛する者として生きるのです。神さまの言葉によって、すべてのものは造られました。私たちも、神さまの創造のわざに励んでいくのです。人を造り上げる、人を生かす者として生きるのです。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
「初めに、神は天地を創造された」。聖書は、神さまがすべてのものを造られた、と語ります。私たちも神さまによって造られ、愛され、赦され、生かされている者です。そういう私たちが、闇に、罪に陥る時、創造ではなく、破壊、愛さない、赦さない、生かさない、そういう方向へと向かってしまいます。悔い改め、それは、方向転換です。私たちを悔い改めへと導いてくださり、造り上げる、愛する、赦す、生かす、という神さまの方向へと向かって歩む者としてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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