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「神の国は来ている」マタイによる福音書12章22~32節 2024/06/09 SUN.

「神の国は来ている」マタイによる福音書12章22~32節 2024/06/09 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書12章22~32節
(はじめに)
 「神の国は来ている」。このような説教題を付けましたが、聖書の中には、「神の国」という言葉が出てきます。私たちは、毎月、礼拝の中で行われます主の晩餐式では、「神の国」のことを祈っているのです。どのように祈るのかといいますと、イエスさまが教えてくださった「主の祈り」の言葉から、祈るのです。「天にまします我らの父よ・・・」。主の晩餐式の時には、「主の祈り」を文語体の言葉で祈りますが、ここでは、分かりやすい口語体で書かれている新共同訳聖書の言葉で読んでみます(マタイ6章9、10節)。
6:9 『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
 これは、「主の祈り」の最初の部分です。ここには、神さまについての祈りが書かれています。私たちは、祈りというと、まず、自分の願っていることを祈るかもしれません。しかし、イエスさまが教えてくださった祈りは、まず、神さまについて祈るのです。「天におられるわたしたちの父」というのは、神さまのことです。「主の祈り」は、神さまに呼びかけるところから始まります。それに続いて、「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」と祈ります。
 この祈りの中に、「御国が来ますように」という言葉がありました。この「御国」というのが、「神の国」のことです。聖書の中には、「神の国」について、「天の国」とも書かれています。「神の国」と「天の国」は、同じことです。「神の国」という言葉は、「神の支配」という意味があります。ですから、私たちが、「御国が来ますように」と祈る時、それは、神さまの国が来ますように、ということであり、また、神さまの支配が来ますように、と祈っていることになるのです。私たちは、この世界が神さまの愛で満たされてほしい、戦争のない平和な世界になってほしい、と願いますが、「御国が来ますように」という祈りは、そういう意味が込められた祈りでもあるのです。

(聖書から)
 さて、今日の聖書の言葉から聴いていきましょう。イエスさまが、病にある人たちを癒されたことが書かれていました。
12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
 今日の聖書個所では、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスさまによって癒されたことが書かれていました。目が見えるようになった。口が利けるようになった。そのことを目撃した群衆の様子が、ここに書かれていました。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
 群衆は驚いた、とあります。この「驚く」という言葉ですが、「自分の外に出される」という意味だそうです。「自分を離れる」と言ってもいいかもしれません。彼らは、イエスさまが癒しを行われたのを見て、このように言ったのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」。「ダビデの子」。これは、救い主という意味です。イスラエルの偉大な王であったダビデの子孫から、救い主がお生まれになる。そのように聖書には書いてあり、ユダヤの人たちは信じて待ち望んできました。群衆は、私たちが待ち望んできた救い主とは、この人のことではないか?と言ったのです。
 イエスさまを救い主と信じる。今日、信仰告白をお聴きしますが、私たちも、イエスさまは救い主と告白した時のことを思い出していただきたいと思います。驚く、というのは、自分を離れる、ということであると言いました。自分を離れる。それは、自分の考え、自分の思いから離れる、ということです。私たちは、イエスさまを信じる前は、自分の考え、自分の思いがすべてでした。つまり、自分自身が人生の主人だったのです。しかし、イエスさまに出会って、自分を離れたのです。自分の考え、自分の思いから離れて、イエスさまのお考え、イエスさまの思いを求めて、生きる者となりました。
 群衆とは対照的な人たちのことが、次の言葉に書かれています。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
 ファリサイ派の人々は、イエスさまをダビデの子、すなわち、救い主とは認めませんでした。彼らは、自分を離れていませんでした。自分の考え、自分の思いがすべてでした。イエスさまが、人々を癒されたことを見たり、聞いたりはしていたと思います。けれども、彼らは、イエスさまを救い主とは認めず、こう言っています。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。
 イエスという男は、悪霊を追い出した、というが、悪霊は、悪霊の頭によらなければ、追い出すことはできない。つまり、イエスさまのことを、悪霊呼ばわりしたのです。これを聞いたイエスさまは、彼らにこのように言われました。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
 悪霊が悪霊を追い出すというのなら、それは、内輪もめということではないか?と言われました。しかし、私は神さまの霊によって悪霊を追い出した、とはっきりと反論されました。そして、「神の国はあなたたちのところに来ている」とも言われました。マタイによる福音書3章2節には、イエスさまがおいでになることをバプテスマのヨハネが語っています。こういう言葉で語っています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。イエスさまが、福音宣教を始められた時、その第一声はこういう言葉でした(マタイ4章17節)。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。先ほどもお話ししましたように、「天の国」というのは、「神の国」と同じことです。イエスさまがこの世に来られた。それは、天の国、神の国は近づいた、ということなのです。
 29節以下をお読みします。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
 イエスさまは、強盗のたとえで、ご自分の働きのことをお話しされています。このようなたとえ話には、私たちは驚いてしまうかもしれませんが、これは、イエスさまが、罪と悪と戦われる方であることが示されているのです。イエスさまが、家を略奪しようとされる。その家が悪霊に支配されている、悪霊のものになっている。イエスさまは、そのままにはされないのです。悪霊の頭を縛り上げて、その家に押し入り、家財道具を奪い取り、その家を略奪するというのです。このようにして、主は、私たちを、悪霊から、ご自分のもとに取り戻されるのです。私たちは、イエス・キリストによって、神さまのもとに取り戻された、立ち帰らされた一人一人であるということをおぼえたいと思います。

(むすび)
 イエスさまのことを悪霊呼ばわりした人たちに対して、イエスさまは、このようなことをお語りになりました。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
ここには、赦されない罪ということが言われています。イエスさまが言われた赦されない罪、それは、何でしょうか?「“霊”に対する冒涜」、「聖霊に言い逆らう」ということが言われていました。これは、神さまの救いの働きを否定する、神さまの赦しを否定する、ということです。救いを否定する、赦しを否定する。私たちはどうでしょうか?あんな人間を神さまはお赦しにならないだろう。私のような者を神さまはお赦しにならないだろう。そう考えて、イエスさまの赦しを否定してはなりません。神さまのみ子イエス・キリストによる救い、十字架の赦し、これは絶対的なものです。私たちは、自分を赦せないでいるかもしれません、人を赦せないでいるかもしれません。しかし、イエスさまは、そういう私を赦してくださった、あの人を赦してくださった。そのことを否定してはならないのです。
今日の説教題、そして、聖書の言葉の中に「神の国はあなたたちのところに来ている」とありました。それは、イエスさまがおいでになったことにより、私たちは、神さまの支配の下にある、ということです。私たちは、今までは、人の支配の下に生きてきました。人の目に自分はどう見えるだろうか、どう思われるだろうか、ということが一番重要なことでした。しかし、今は違います。神さまの支配の下に生きる。それは、神さまの目から見て生きるということです。私たちが聖書の言葉を聴いて歩んでいく時、神さまの目から見る者とされていくのです。神さまの目には、私たちすべてが罪人です。しかし、そういう私たちのために、イエスさまは十字架にかかってくださいました。私たちは罪から救われた者、赦された者なのです。ある方は、こう言われました。「神さまを信じて生きるというのは、悔い改めて生きるということだ。悔い改めとは、日々、罪を告白し、神さまの赦しを受け取って生きることだ」。イエスさまと共に新しい人生を歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまは、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けなかった人を癒されました。私たちも以前は、この人と同じ苦しみの中にありました。しかし、主は私たちを悪しきものから救い出され、癒し、聖書の言葉を与えてくださり、神さまの目で見ること、神さまの言葉を語ることができるようにしてくださいました。
「神の国はあなたたちのところに来ている」と主は言われました。主は私たちのところにおいでくださり、今日も共に歩んでおられます。これから始まる新しい日々も主が共に歩んでくださいますように。私たちを主の救いの喜びを伝えていく者として用いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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