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「私たちに現れた永遠の命」ヨハネの手紙Ⅰ 1章1~4節 2024/06/16 SUN.

「私たちに現れた永遠の命」ヨハネの手紙Ⅰ 1章1~4節 2024/06/16 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―ヨハネの手紙一1章1~4節
(はじめに)
 お読みしましたヨハネの手紙一は、このような言葉から始まります。
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
 この言葉を読んで、これとよく似た聖書の個所を思い出された方があるかもしれません。ヨハネによる福音書です(ヨハネ1章1節)。
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 ヨハネによる福音書の最初の言葉です。ここで言われている「言」というのは、イエス・キリストのことだと言われています。ですから、ここに書かれている「言」をキリストに言い換えてみると、「初めにキリストがおられた。キリストは神さまと共におられた。キリストは神さまであった」と読むことができます。
 ヨハネによる福音書の最初の言葉と、ヨハネの手紙一の最初の言葉が似ていることから、同じ人物が書いたものではないか、と言われてきました。最近の聖書学者の説によると、同じ人物が書いたものではない、という説の方が支持されています。しかし、もし別の人物であったとしても、何らかの関係、影響はあったのではないか、と考えてもよいのではないかと思います。

(聖書から)
 さて、ヨハネの手紙一の言葉に戻りましょう。お読みしたように、1節には、「命の言」について、書かれていました。それが、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」と言われています。
 「初めからあったもの」。先ほどのヨハネによる福音書では、「初めに言があった」とありました。「言」とは、キリストのことだと言いましたが、キリストは初めからおられた。ヨハネの手紙の「初めからあったもの」というのも同じことでしょうか。
 それに続いて、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とあります。「命の言」、ヨハネによる福音書の「言」と同じ意味なら、キリストのことです。この方について、聞く、見る、よく見る、手で触れる、ということが言われています。
 普通、言葉というと、聞く、ということであって、言葉を見る、とか、言葉を手で触れる、ということは、ありません。ところが、ここでは、「命の言」を聞く、見る、よく見る、手で触れる、とあります。私は、これを読みながら、イエスさまと出会った弟子たちのことを思いました。福音書に書かれているイエスさまの弟子たちです。この人たちは、イエスさまの言葉を聞いたことでしょう。そのお姿を見たことでしょう。時に、触れるということもあったでしょう。イエスさまが、病にある人に触れて癒されたという場面が福音書に出てきます。
 触れる、ということで、私がすぐに思い起こす聖書の言葉があります。イエスさまの弟子の一人であるトマスが復活のイエスさまと出会った時の場面です。イエスさまが復活され、弟子たちと出会われた時、そこにトマスはいませんでした。私たちは復活の主に出会った、と他の弟子たちが言いましたが、トマスは信じられず、こう言ったのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20章25節)。トマスは、イエスさまを実際に、この目で見なければ、そして、この手で触れなければ、信じない、と言ったのです。
 それから八日の後、復活された主は、トマスに出会われました。その時のイエスさまとトマスのやり取りを読んでみます(ヨハネ20章27~29節)。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 イエスさまは、トマスの考えをご存じでした。それで、ご自分を見るように、ご自分に触れるように、と言われたのです。これを聞いたトマスはどうしたでしょうか?「トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った」とあります。トマスは、イエスさまに触れなければ、信じない、と言った人です。しかし、ここには、イエスさまに触れた、とは何も書いていません。私は、トマスは復活の主に触れることなく、こう言ったのだ、と思います。「わたしの主、わたしの神よ」。
 トマスは、他の弟子たちから、私たちは復活の主に出会った、という言葉を聞いても信じませんでした。そのトマスが、復活の主に触れることなく、「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのです。あなたは私の主、私の神さまです、と言ったのです。これは、トマスの信仰告白です。この後、イエスさまは、トマスにこう言いました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。イエスさまは、あなたは私を見たから信じたのか、と言われました。そしてすぐ後で、「見ないのに信じる人は、幸いである」とも言われました。見なくても、触れなくても信じる信仰があることをお示しになりました。今、私たちは、その信仰にあずかっています。私たちは、イエスさまをこの目で見てはいません。イエスさまをこの手で触れてはいません。でも、イエスさまを信じています。なぜ、信じているのでしょう?イエスさまが、私たちに見ないで信じる信仰を与えてくださったのです。
 それでは、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」という言葉は、無意味な言葉なのでしょうか?いいえ、そうではありません。トマスが復活の主に出会った時、イエスさまの十字架の傷跡に触れてもいないのに、思わず、「わたしの主、わたしの神よ」と言ったように、私たちもこの耳で聞いていないのに、この目で見ていないのに、この手で触れてもいないのに、まるで聞いているかのように、まるで見ているかのように、まるで触れているかのようにして、イエスさまと共に歩んでいくことができるのです。私たちは、信仰によって聞くことができる、信仰によって見ることができる、信仰によって触れることができる。そういう恵みにあずかっているのです。
 続いて、2節をお読みします。
1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
 命が現れる。面白い表現です。1節では、「言」、これがキーワードでした。2節では、「命」、これがキーワードです。イエス・キリストのことを「言」、そして、「命」と言っているのです。命が現れた。イエス・キリストが現れた。私たちはこの方を見た。そして、あなたがたに証しし、伝える。イエスさまに出会った人は、イエスさまを人々に証しするのです、伝えるのです。
 それでは、なぜ、イエス・キリストを人々に証しするのでしょう?伝えるのでしょう?イエスさまを人々に伝えること、教会へ人々をお誘いすること、これは、大変勇気のいることです。伝えても聞いてくれないかもしれない・・・。誘っても断られるかもしれない・・・。皆さん、それぞれイエスさまを伝えることに励んでおられると思いますが、なかなか成果が上がらず、めげそうになってしまうかもしれません。そういう私たちですが、3節には、イエスさまを伝える理由が語られています。
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
 イエスさまを伝える。それはなぜでしょう?それは、「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるため」というのです。「わたしたちとの交わり」とは何でしょう。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあります。イエスさまを伝える理由、それは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」、つまり、神さまとの交わりを持つためだというのです。
 「交わり」。これは、キリスト教会の中では、よく使われる言葉です。コロナ禍にあって、なかなか教会の交わりが持てないでいる・・・。コロナ禍にあった時、牧師の集まりなどで、そういう話題がよく出ました。ところで、私たちが「交わり」という言葉を使う時、どういう意味で使っているでしょうか?仲の良い者同士が集まって、おしゃべりをすることでしょうか?一緒に何か楽しいことをすることでしょうか?
 「交わり」。ギリシア語の原語では、「コイノニア」と言います。交わり、共有という意味です。共有、それは何を共有するのかというと、命を共有するということです。ある聖書の訳では、そのことを意識してなのでしょうか、「生命の交わり」(3節・共同訳/1978年版)と訳されていました。私たちは、イエス・キリストによって、神さまの命を共有する、命の交わりを持つことができるようになる、というのです。

(むすび)
 私たちには、神さまの命の交わり、共有が与えられている、ということをお話ししました。そのことについて、もう少し考えてみたいと思います。私たちは、神さまから命を与えられています。神さまによって生かされている、と言ってもよいでしょう。それでは私たちが、神さまを信じる前は、神さまを知らない時はどうだったでしょう。与えられている命とか、生かされている、ということは考えなかったのではないでしょうか?イエスさまを信じることによって、命は神さまから与えられたもの、私は神さまによって生かされている。そのことに気づかされたのです。私たちが出会うあの人、この人も同じです。あの人も神さまから命を与えられた一人、この人も神さまから愛されている一人・・・。
 今日の聖書の言葉、最後の4節をお読みします。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
 「わたしたちの喜び」とありました。3節から考えると、その喜びというのは、神さまとの交わりにあずかった喜び、神さまから命を与えられている、神さまに生かされている喜びということになると思います。
 神さまとの交わり。そのために何か特別なことをしなければならない、と考える必要はありません。祈りを通して、神さまの言葉を聴くことを通して、私たちは、いつでも、どこでも神さまとの交わりを持つことができるのです。詩編119編24節の言葉を二つの聖書の訳で読んでみます。
119:24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。(新改訳)
119:24 あなたの定めこそ私の喜び 私の良き助言者。(聖書協会共同訳)
 詩編の詩人が、神さまの言葉を、神さまご自身をこのように言っています。「私の喜び、私の相談相手」、「私の喜び 私の良き助言者」。神さまこそは、本当に信頼できる方です。私たちは、この方との交わりに生きることができるようにされたのです。この方と共に歩むことができるようにされたのです。これこそは喜びではないでしょうか。これこそは感謝なことではないでしょうか。私たちがまず、神さまとの交わりを喜んでいきたいと思います。どうか、私たちに与えられたこの交わり、喜びにあずかる方があるように、私たちは祈りつつ、主を伝えていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまとの出会い、交わりを喜び、生きる人の言葉を聴きました。私たちにも、この交わり、この喜びが与えられたことを感謝します。
私たちに与えられた喜びが満ち溢れて、イエスさまを伝えたいという思いに導いてください。そして、イエスさまの救いを受け取る方が、神さまが与える本当の喜びを体験することができますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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