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「良い麦と毒麦」マタイによる福音書13章24~43節 2024/09/08 SUN.

「良い麦と毒麦」マタイによる福音書13章24~43節 2024/09/08 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書13章24~43節
(はじめに)
お読みした聖書の箇所は、イエスさまのたとえ話の一つです。イエスさまは、このたとえ話の初めに、「天の国は次のようにたとえられる」と語られました。イエスさまは、天の国についてお話しされたのです。イエスさまが、ガリラヤで福音宣教を始められた時、最初に言われた言葉、それは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4章17節)ということでした。天の国は近づいた、とは、イエスさまがおいでになって、天の国が始まった、ということです。イエスさまが、私たちのところにおいでになったから、イエスさまの方を向いて歩みましょう。イエスさまと共に歩みましょう。それが悔い改めということです。

(聖書から)
今日は「毒麦のたとえ」と言われる箇所をお読みしました。もう一度、24節から内容を見ていただきますと、畑の主人は良い種を自分の畑に蒔いていたのに、眠っている間に敵がやってきて、畑に毒麦の種を蒔いてしまった。すると、芽が生えてきて、実を結ぶ時に、麦ばかりか、毒麦も現れてきたということです。それで、僕が家の主人に、毒麦が生えてきたので、抜き取ってしまいましょうか、と言いますと、主人は、毒麦と一緒に麦も抜き取ってしまうといけないから、そのままにしておきなさい。収穫の時に、毒麦は束にして焼き、麦は集めて倉に入れるから、と言った、という話です。このたとえは何を私たちに語っているのでしょうか。36節以下には、毒麦のたとえの説明が書かれていますので、その箇所を読んでみたいと思います(37~43節)。
13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
畑は世界のことだとありましたが、私たちの生きているこの世界、この世の中、そこには、様々な人たちがいます。この聖書のたとえでは、良い種は、み国の子たち、すなわち、神の子たちということでした。そして、毒麦は、悪い者の子たちだということでした。神さまを信じる人がいます。神さまを信じない人たちもいます。また、いろいろな人たちがいて、共存しています。私たちは毎日、この世界、世の中で、いろいろな出来事が起こっていることを知ります。私たちは、テレビを見たり、新聞を読んだり、また人との出会いから、世界のこと、世の中のことを知りますが、どうしてこんなことが、というような出来事や人がいることを思います。
ある方は、この毒麦のたとえを読んで、神さまはなぜ、良い者と悪い者とを共存させておられるのだろうか。そうすることによって、良い者たちが苦しむ世の中になっているのではないか。神さまが正しいお方ならば、どうして悪い者をそのままにしておくのか、と言いました。良い者と悪い者ということですが、イエスさまは、山上の説教の中で、このようなことを言われました(5章45節)。
5:45父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
「父」というのは、神さまのことです。神さまは、悪人にも、善人にも、正しい者にも、正しくない者にも、生きるために必要なものを等しく与えておられる、とあります。ところで、私たちは、この聖書の言葉を、どこに立って聞くでしょうか?もしかすると、自分は、悪人ではなく、善人、正しくない者ではなく、正しい者、そのようなところに立って聞くかもしれません。
パウロという人は、神さまの律法を忠実に守ろうと努めた人でした。けれども、どんなに努力しても、完全には守ることができない。人間は、どこまでも不完全な者だ。そのことに気づいた人でした。ローマの信徒への手紙7章15節では、このようなことを書いています。
7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
パウロは、神さまの律法、掟をよく学び、実行することに努めていましたが、自分は、その反対のことを考えてしまったり、行なってしまったりしている。そのことを正直に告白しているのです。パウロは、自分のことを善人だとか、正しい人だとは言えない。この私は神さまの前には、一人の罪人に過ぎない、と言っているのです。これは、私たちも同じではないでしょうか?私たちは、正しいこと、良いことは知っています。それを実行しようともします。しかし、それができないでいたり、その正反対のことを考えたり、行なったりしてしまう・・・。
今日お読みした聖書箇所では、神の子と悪い者の子とありましたが、このマタイによる福音書が書かれた当時の教会の中には、自分たちの周りの人たちを裁き、自分たちだけが正しく神さまに従っていると考えていた人たち、自分たちは、み国の子だ、神の子だ、と思っていた人たちがいました。しかし、彼らは、自分の正しさを追求するあまり、人々を裁き、神さまの愛からかけ離れてしまいました。また自分の中に潜む罪、悪には気づいていませんでした。
このたとえに出ていた僕たちは、毒麦について、主人にこう言いました。「では、行って抜き集めておきましょうか」(28節)。しかし、主人はこう答えました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(29、30節)。刈り入れまで待つように、と主人は言いました。刈り入れとは、世の終わりのことです(39節)。世の終わりとは、終末、神さまがすべてを裁かれる時のことです。その時まで、待つようにと言われました。
このことは私たちに何を示しているでしょうか。第一に、早急な裁きをしてはいけないということです。第二に、裁きは神さまのものだということです。そうであるのに、私たちは、自分がまるで神さまのようになってしまう、裁き主になってしまうことがあるのではないでしょうか。
毒麦を抜こうと考えた僕たちでしたが、この僕たちは、すぐに自分たちで抜いてしまうことはしませんでした。このことについて、主人に尋ねています。毒麦を抜きましょうか、どうしましょうか。自分で決めてしまわないで、まず、私たちの主である神さまに聴くということが大切です。
私たちは、神さまだけが裁き主であるのに、自分が神さまになり代わり、裁き主になってしまい、自分が他人を裁いてしまう。そればかりか、自分で、自分のことも裁いてしまう・・・。しかし、イエスさまは、このたとえを通して、自分で裁いてしまわないように、自分で結論を出してしまわないようにと示されたのです。裁きは神さまのものです。私たちは早急な裁きはしてはならないのです。すべてを主に尋ね、主にゆだねていくのです。
主は早急な裁きや結論を出さないで、終わりの日があることを信じて、待つように、主にゆだねるようにと示されました。また主は、私たちが「待つ」ことを求められただけでなく、神さまご自身が、「待つ」ということ、神さまご自身が、私たちを待っておられるということをも示しておられます。
主人である神さまは、良い麦も一緒に抜くかも知れないから、と言って、僕に毒麦を抜くことをやめさせました。そして、両方とも育つままにしておくように言われました。それは、神さまが、私たちを待っておられることを示しているのです。神さまは、どの麦も大切にされる。私たち一人一人を大切にされる。私たち一人一人のことをおぼえてくださり、忍耐して、ご自分のもとに立ち返る日を待っておられる。この神さまの愛、神さまの忍耐を知る私たちは、それに応えて、自分に与えられた主の救いを感謝し、喜び、友の救いのために祈り、主を伝えてまいりましょう。

(むすび)
今日のたとえ話の中に、もう一つのたとえ話がありました。「からし種とパン種」のたとえと言われるものです(31~33節)。
13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
からし種、パン種、それは、とても小さなものです。けれども、その小さなものが成長すると、膨らむと、とても大きくなるのです。それは、神さまのみわざ、神さまの力を表しています。からし種、パン種はとても小さい。まるで私たちのようです。キリストを信じる群れ、教会、それは世にあっては、小さなものです。小さく、弱い私たちにいったい何ができるのだろうか、と思うことがあります。でも、神さまのみわざ、神さまの力によって歩む時、福音は前進するのです。そのことを信じていきましょう。主が私たちを用いてくださり、主のみわざ、主の力によって、福音がいたるところで宣べ伝えられますように、と祈りつつ、励んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちは、すぐに人を裁いてしまったり、自分を裁いてしまったりするような者です。しかし、神さまは、毒麦について、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われました。すぐに抜くことをせず、結論を出さず、私たちを待っておられる神さまの愛、神さまの忍耐がここに示されていました。神さまは私たち一人一人のことをおぼえ、待っておられます。その愛、忍耐を知り、悔い改めて生きる。イエスさまの方を向いて、イエスさまと共に歩む私たちでありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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