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【礼拝説教】2022年9月18日「朽ちない冠を得るために」

2022年9月18日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「朽ちない冠を得るために」コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章24~27節

聖書―コリントの信徒への手紙一9章24~27節
(はじめに)
 コリントの信徒への手紙一9章24~27節が今日の聖書の箇所です。この箇所のすぐ前にある先月お読みしました言葉をお読みします(23節)。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」。この言葉からは、パウロの気持ちがよく伝わってきます。福音、イエス・キリストの救い、このことが一人でも多くの人たちに伝えられますように。私はこのためならば、どんなことでもします!これはパウロ自身が福音に生かされているから、福音を喜んでいるから、このように言えたのだと思います。そして、もう一つの言葉、「わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。「福音に共にあずかる者」とあります。福音を自分だけがあずかればよいというのではないのです。この私を生かし、支えている福音、イエスさま。ぜひ、この方を一人でも多くの方々が知り、受け取ってほしい。その思いがこの言葉に表されています。私たちも福音に共にあずかる者になるために、福音を伝えていきましょう、分かち合っていきましょう。

(聖書から)
 さて、今日の聖書には、「競技場」とか、「賞」、「冠」という言葉が出てきます。これらの言葉を聞きますと、スポーツの大会を思い浮かべる方があると思います。お読みしましたコリントの信徒への手紙はキリストの使徒パウロがコリントに書き送った手紙です。このコリントという町では、隔年でイストミア大競技祭というスポーツの大きなイベントが行われていました。そこでパウロは信仰生活をスポーツに例えて語ったのです。イエスさまもそうでしたが、パウロも、福音が伝わるようにと、その人にとって身近なものなどを用いて語ったのです。私たちにとっても、人々に福音を伝える時のヒントになると思います。さっそく今日の箇所を読んでいきます。24節です。
9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
 この言葉を読むと、ああ、賞を受けるのは一人だけなのか。それでは、その一人になるために頑張らななければ!このようにこの箇所を理解する方があるかもしれません。賞を受ける一人となるためにどうしたらよいか・・・。けれども、ここで言われているのはそういうことではありません。ところで皆さんはこういう言葉を聞いたことがあるかもしれません。「参加することに意義がある」。この言葉は昔のフランスのIOC、オリンピック実行委員会の会長の言葉として知られています。実はこれは会長自身の言葉ではなくて、アメリカの聖公会の司祭の言葉の引用だそうです。この「参加することに意義がある」という言葉の意味は、参加することで満足だ。競技の方はどうでもいい、ということではないのです。参加して戦うことが大事だ、という意味です。競技大会に参加するからには、賞を得ようと努めるのです。それと同じように、イエス・キリストを信じる信仰生活も、イエスさまを信じた!これで救われたから、後は何をしても、何をしなくても、どうでもいい、ということではありません。「あなたがたも賞を得るように走りなさい」とありました。賞を得るように走る。賞という目的を持って、目標を持って、信仰生活を生きるのです。
 では私たちにとっての賞、つまり、目的、目標は何でしょうか?これは今日の最初にお話ししました。「わたしが福音に共にあずかる者となるため」。福音を伝えること、福音に共にあずかるため。これが私たちの目的、目標です。私たちが教会、キリストの体としてここに呼び集められたのも、このことのためです。けれども、別なことが目的、目標になっていくならば、教会が教会ではなくなってしまいます。
9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
 25節を読みました。競技をする人は節制するとあります。節制という言葉、これは訓練とか、練習という意味があります。競技をする人というのは、キリストを信じる者のことです。私たちはどのような訓練、練習をしているでしょうか?またこの25節では、「朽ちる冠」と「朽ちない冠」ということが言われていました。朽ちる冠というのは、永遠ではないものということです。しかし、私たちは朽ちない冠のために節制します。朽ちない冠、朽ちない、というのは永遠のもの、福音です。その朽ちない冠、福音を深く知るために、福音に生きるために。また福音を伝えるためにどうしたらよいのか。そのための訓練、練習というのは大事です。
 私は今、求道されている方の何人かと一緒に聖書を学ぶ機会が与えられています。これは私自身にとっては大事な訓練の時だと思っています。どうしたら、イエスさまの福音が伝わるだろうか。そのことを、身を持って学ばされています。人に福音を伝えること、教えることを通して、自分自身が人に届く言葉をまだまだ十分に語っていないのではないか?自分自身が本当に福音に生きているだろうか?そういったことに気づかされ、自問自答させられています。皆さんも自分の信仰の成長のための訓練として、いろいろなことを励んでおられるのではないかと思います。
 続いて、26節をお読みします。
9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
 「やみくもに走ったりしない」とありました。口語訳聖書では「目標のはっきりしないような走り方をせず」とありました。そして、「空を打つような拳闘もしません」とありました。これはどういうことでしょうか?この後の27節も合わせて読んでみます。
9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
 「空を打つような拳闘」。やみくもに走ったりしない。これと同じことで、目標がなく、はっきりせず、という意味で考えられると思いますが、27節には「自分の体を打ちたたいて服従させます」とありました。そこから考えますと、「空を打つような拳闘」というのは、自分の体を打ちたたく、というのではなく、誰かを打ちたたくということになるかもしれません。
 自分ではなく、誰かを打ちたたいてしまっている。私たちの信仰生活の中では、そのようなことも度々あるのではないでしょうか。自分のことを顧みることをしないで、人の批判ばかりしている。神さまは正しいお方です、真実なお方です。でも自分は正しい者ではありませんし、真実な者でもありません。それなのに、まるで自分が正しい者、真実な者であるかのように思い込み、まわりの人たちを見下したり、裁いたりしてしまうようなことはないでしょうか。イエスさまは「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7章5節)と言われました。人を裁く前に、まず、自分自身が神さまの前にどうなのか、そこから始めなさい、と言われたのです。
 もう一度、27節をお読みします。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」。自分の体を打ちたたいて服従させる。この「服従させる」というのは、別の訳では「私のからだを殴打し、奴隷として従わせる」(岩波訳)となっていました。自分自身を奴隷として、つまり、僕として従わせる、ということです。イエスさまは、ご自分の弟子たちに互いの足を洗うように、と語られ(ヨハネ13章14節)、主ご自身が僕として生きられたこと、仕える者として生きられたことを示して、ご自分の弟子たちにも同じように僕として生きるように、仕える者として生きるように教えられました。私たちも主の弟子です。そういう私たちが、自分がキリストの奴隷、僕であることを忘れた時、人を打ちたたくようなことをしてしまうのではないでしょうか。自分がまるで主人や偉い者であるかのように振る舞ってしまうのではないでしょうか。ここには「自分の方が失格者になってしまわないため」とありましたが、ここで言われている失格者というのは、自分が僕であること、仕える者であることを忘れてしまった状態ということではないでしょうか。 

(むすび)
 「自分の体を打ちたたいて服従させます」。この言葉は、もう一つの別の訳では「自分の身体に的確にパンチをくらわして、従わせる」(田川建三訳)となっていました。パンチをくらわせるというのは、とても具体的です。このパンチというのは、誰のパンチかというと、神さまの愛のパンチです。私たちが聖書から、神さまの言葉を聴く時、私たちは神さまからこの愛のパンチをいただくのです。パンチと言いますから、それは時に痛いものかもしれません。自分の罪、愛のなさ、偽善性を示されることがあります。私たちは自分の罪に気づかされる時、心が痛みます。しかし、そのことによって、私たちの信仰の目が、霊の目が開かれていくのです。眠っていたのが目覚めさせられる。大切なことを見失っていた、忘れていた。そして、悔い改めて新しい一歩を歩み出すことができるのです。
 ある一人の姉妹とお話ししていた時、この姉妹が「私は体も心も弱ってきて、せっかく今まで心に蓄えてきた聖書の言葉が次々と忘れていくのです」と嘆いておられました。私は「私も同じです。忘れてもいいのです。忘れても、今日新たにみ言葉を心に蓄えたらいいのです。大事なことは、今日、今、み言葉をいただくことです」と答えました。出エジプトのイスラエルの民はどうだったでしょうか?彼らはその日新たにマナをいただき、マナによって生かされました(出エジプト16章参照)。マナ、神さまが私たちに与えてくださる命の言葉です。私たちも今日、今、神さまからの命の言葉をいただいて歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
賞を得るように走りなさい、朽ちない冠を得るために節制しなさい、と語られています。もうすでにイエスを主と信じる者には、賞が与えられている、朽ちない冠が与えられていると信じます。私たちに与えられている賞とは、朽ちない冠とは、永遠の命、福音、イエス・キリストご自身です。
しかし、この素晴らしい恵みが与えられているのに、それがまるで与えられていないかのようにして過ごしていることがあります。朽ちない冠よりも、朽ちる冠、永遠ではないものを求めていることがあります。
私たちの信仰の目が開かれて、与えられた恵みを見続けていくことができますように、本当に求めるべきものを求めることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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