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「皮の衣」創世記3章14~24節 2024/09/22

「皮の衣」創世記3章14~24節 2024/09/22 赤塚教会礼拝説教

聖書―創世記3章14~24節
(はじめに)
 毎月の第四週の主日礼拝では、創世記から説教しています。これまでお話ししてきたことを振り返りますと、神さまが天地創造、すべてのものをお造りになったこと。そして、神さまに造られた最初の人間として、アダムとエバの話が書かれていました。先月お読みした創世記3章前半では、アダムとエバが蛇の誘惑に遭った、ということが書かれていました。蛇の誘惑ということですが、これは生き物の蛇が悪いという話ではありません。蛇というのは、悪魔、サタンを象徴して表していますから、ここで言われていることは、悪魔、サタンの誘惑に遭った、ということです。そのことによって、人間は罪に陥ってしまったのです。ある牧師先生は「罪とは、神さまを信頼しないこと、神さまの愛を信頼しないこと」と言っておられましたが、アダムとエバが罪に陥っていく過程を見ていきますと、確かにそうだと思います。神さまは本当に私たちを愛しているのだろうか?神さまは本当に私たちを大切に考えているのだろうか?神さまの言葉を聞いても、素直に受け入れられず、疑いや不信感で心が揺らいでいる、その心の隙間に悪魔は巧妙に入り込み、ささやいたということでしょう。

(聖書から)
 さて、お読みしました聖書個所は創世記3章14節からです。ここには、神さまが、蛇、女、アダム、それぞれに語られた、ということが書かれていました。それぞれに語られた、というのは、一人一人に語られた、ということです。神さまという方は、一人一人に語られ、出会われ、向き合ってくださる方なのです。まず、神さまは蛇に向かって語られます。
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
 蛇は女を誘惑しました。そして、女は男、すなわち、アダムを誘惑しました。先月お読みしました聖書箇所では、アダムは、神さまから罪を問われていました(11節)。それに対して、アダムはこう言っています。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(12節)。女が私を誘惑したから悪いのです。そして、女と共にいるようにしてくださったあなたも悪いのです、と言っているようです。さらには、蛇がだましたから悪いのです、とも言っています(13節)。
 これが罪に支配されている人間の姿です。しかし、神さまの前で自分の罪を認めて、自分を神さまにお任せしていくなら、罪の問題は解決するのです。ところが、アダムは、罪を認めるどころか、罪を隠してしまった、罪を人のせいにしてしまったのです。けれども、そういうアダムに対して、それでも神さまは向き合ってくださるのです。このように、神さまは、どんな私たちであっても、向き合い続けてくださるのです。それは嬉しいようにも、ありがたいようにも思えますが、神さまと私、一対一ですから、そこではもう言い訳や言い逃れはできません。ごまかすこと、嘘をつくことはできません。神さまと向き合わされていく時、私たちはそこで初めて罪と向き合わされ、罪に支配されたままで生きることがどんなに虚しいことであるのか気づかされていくのです。
 さて、神さまが蛇に語られたこと、つまり、悪魔に語られたことを見ていきましょう。悪魔、サタンとは呪われているものであり、人間とは敵対するもの、人間を罪に陥らせようと攻撃するものだというのです。私たちは生涯にわたって、この悪しきものと戦っていかねばなりません。悪魔は、アダムやエバを罪に陥らせたように、私たちを罪に陥らせようとします。そういう悪魔に対して、罪に対して、私たちはどうしたらよいのでしょうか?それは、神さまの前に立つことです。神さまの前に立ち、本当の自分を知ることです。悪魔に対して、罪に対して、自分では打ち勝つことができない、自分一人ではどうにもならない、神さまが共におられなければ、どうにもならない。そういう自分であることを知ることです。イエスさまがご自分の弟子たちに教えてくださった祈りがあります。主の祈りというものです。その祈りの中に「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6章13節)とあります。この祈りが教えていること、それは自分の罪を認め、罪や悪に勝つことができない自分の弱さを認め、神さまに助けを求めなさい、ということです。
 続いて、神さまは女に向かってお語りになりました。
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
 神さまが、女に言われたこと、それは産みの苦しみ、そして、支配ということです。産みの苦しみということですが、子供を産むことは大きな喜びです。しかし、産みの苦しみを通して喜びを知るのです。しかし、それから先もあるのです。そのことについては、子育てをなさっている方はよくお分かりでしょう。では苦しみを乗り越えるためにどうしたらよいでしょうか?神さまは私たちに信仰を与えてくださいます。信仰とは、神さまを信頼して生きることです。私たちには、産みの苦しみ、育てる苦しみ、また様々な苦しみがあります。その苦しみの前に無力さをおぼえる私たちです。でも、祈ることができるのです。私たちは神さまの助けを、守りを祈るのです。そして、神さまの力に支えられて苦しみを乗り越えさせていただくのです。
次に、支配ということですが、私たちは、相手を支配しようとしてしまう者ではないでしょうか。私たちの友人関係、家族関係はどうでしょうか?友を、家族を、自分の意のままに動かそうとする、コントロールしようとする。自分のために利用しようとする。それは、神さまが求められる、喜ばれる関係ではないと思います。私たちは、神さまの言葉から、神さまが求められ、喜ばれる関係とはどういうものかを聴いていきたいと思うのです。それは支配ではない、互いに愛し合い、支え合う関係ではないでしょうか。
 そして、アダムに対して神さまはお語りになります。
3:17 神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
 ここからは三つのことを知らされます。一つは、土は呪われるものとなった、ということです。土というのは土地ということです。もっと言えば、環境ということです。罪によって、土地が、環境が傷つけられること、痛むことになるというのです。ですから、私たちは土地、環境といったものが傷つけられないように、痛むことがないように、正しく管理することに努めなければなりません。創世記1章28節以下には、神さまが、人間に対して、この地上を正しく治める、管理することが言われていました。
 続いて言われていることは、労働、働くことの苦しみということです。人間には働くことが与えられていることが2章15節に書かれていましたが、今日のこの箇所では働くことの苦しみが言われています。それはどういうことかと言いますと、働くことは食を得るための苦しみになったということです。働くために食べるのか、食べるために働くのか、というふうに、働く意味が分からないという苦しみです。ドイツ語で、ベルーフという言葉があります。日本語では、職業、仕事、使命、また、天職、神さまから与えられた使命ということです。働くことには意味がある。神さまが、私たちに働くということを与えてくださった。私たちは働きを通して、神さまの栄光を表していくのだ。そのことを知る時、私たちは、働くことを喜ぶことができるのではないでしょうか。
 そして、三つ目のこと、それは19節にありますように、人は死ぬべき存在となった、ということです。塵から造られた私たちは塵に返るというのです。すべての人間は地上の生涯を終えると、その肉体は滅び、塵に返ります。それだけだと、何と人間は虚しい存在であるのか、と考えてしまうでしょう。しかし、創世記1章26、27節には、人間は神さまにかたどって造られた存在であること、2章7節には、神さまが人間を造られた時、その鼻に命の息を吹き入れられたことが書かれていました。神さまにかたどって造られた者とは、神さまの愛を表す者ということです。そして、私たちは神さまの命の息によって生きる者です。命の息によって生きるとは、神さまと共に生きる者ということです。私たちは、この地上の人生を神さまの愛を表して生きる、神さまと共に生きるのです。地上の人生を終えた後も、それで終わりではありません。永遠に神さまの愛に生きる、神さまと共に生きることができるのです。それが、聖書が教える永遠の命ということです。
 20、21節をお読みします。
3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
 アダムは女に名前を付けます。それはエバ、命という意味です。これについては、このように書かれていました。「彼女がすべて命あるものの母となったからである」。女性は子供を産む、命を産むという尊い役割が与えられていることが示されています。また、アダムにとって、エバという存在は、命だというのです。それは、自分にとって、そして、相手にとっても、かけがえのない存在、助け手、人生のパートナーであることが示されているのです。アダムは、先ほどお読みしたように、神さまの配慮により、妻であるエバを与えられたのに、罪によって、本当の自分を見失い、エバのことを「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」、こんなことを言ってしまいました。しかし、アダムは、神さまと向き合わされ、その言葉を聴くことによって、自分自身が変えられて、エバのことを神さまが与えてくださったかけがえのない存在であることを受け止めることができるようになったのです。エバ、命、相手を命と呼べる関係、神さまの愛に基づいて愛し合う関係となったのです。

(むすび)
 今日の説教題は「皮の衣」としました。21節の言葉から取りましたが、アダムとエバはこの後、エデンの園から追放されます。それは彼らが、その罪のゆえに、神さまから見捨てられた、ということでしょうか?いいえ、これは彼らを世のただ中へと送り出されたことを意味します。もう一度21節に戻りますが、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とありました。これから、彼らは世のただ中を生きていかなければなりません。それは大きな不安があり、心配があったと思いますが、神さまが皮の衣を着せられた、というのは、神さまはもう彼らとは関わらない、彼らをお見捨てになった、ということではないのです。神さまが彼らを皮の衣で覆ってくださるとは、神さまは、これからも彼らを守り、共に歩んでくださるということなのです。私たちも、この世を生きる者ですが、神さまは、私たちのことも、皮の衣、いいえ、愛の衣で覆ってくださる、私たちを守り、共に歩んでくださるのです。神さまを信頼して歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
  神さまは、私たちが神さまのもとから離れようとする時、避けようとする時、「あなたはどこにいるのか」(3章9節)と探し求めてくださる方です。そして、一人一人に出会い、向き合い、語りかけてくださる方です。私たちは、いつもその声を聴き、主に立ち返る者としてください。
 アダムとエバは神さまから、世に送り出されていったように、私たちも送り出されていきます。それは皮の衣、愛の衣に覆われてのこの世の歩みです。神さまが共におられ、歩んでくださっていること、神さまの守りを信じて歩ませてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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