恐れることはない マタイによる福音書14章22〜36節 2024/11/10
聖書―マタイによる福音書14章22~36節
(はじめに)
イエスさまが五千人、いいえ、五千人以上の人たちに食事を与えた、という出来事のすぐ後の聖書の個所をお読みしました。そこには、このようなことが書かれていました。
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
「それからすぐ」、「強いて」という言葉からは、イエスさまの強い意志を感じます。なぜ、すぐに、だったのでしょうか。なぜ、強いて、だったのでしょうか。この五千人の供食の記事は、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書にも書かれています。ヨハネによる福音書では、別の福音書と異なり、次のような言葉が書かれています(ヨハネ6章14、15節)。
6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
ヨハネによる福音書では、イエスさまが、五千人に食べ物を与えた出来事を見た人の言葉が書かれています。「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったというのです。イエスさまは、その言葉をお聞きになっていたのか分かりませんが、その後に、「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り」とあります。イエスさまを王として祭り上げようとした人たちがいたようです。そのことを知られ、主は「ひとりでまた山に退かれた」というのです。これは、ご自分が王として、祭り上げられることを避けたのでしょう。ご自分の弟子たちも、これらのことに巻き込まれないようにと、急いで、舟に乗り込ませた、ということが考えられるのではないでしょうか。
イエスさまは、救い主として、この世においでになりましたが、この世の王になることは望まれませんでした。それは、神さまのみ心ではないからです。イエスさまは、神さまのみ心ではないこと、お喜びになられないことは避けられるのです。ご自分が、避けられるだけでなく、弟子たちにも、避けるようになさったのです。もしも、イエスさまを王としようとする人たちのところへ行ったなら、イエスさまも、弟子たちも、みんなの注目を浴びて、称賛されたことでしょう。けれども、それは、神さまが、イエスさまと弟子たちに用意された生き方ではありませんでした。私たちも、人生の歩みの中で、何が神さまのみ心なのか、そうでないことなのか。選び取るべきこと、避けるべきことは何か。そのことを祈りつつ、み言葉に聴きながら判断していきたいと思うのです。
(聖書から)
イエスさまは、お一人で山に登り、祈りの時を持たれました。それは、夕方まで、長い時間であったようです。一方、イエスさまの弟子たちは、舟に乗り、向こう岸へ向かって進んで行きました。しかし、弟子たちは大変な状況だったようです。
14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
舟は陸から、何スタディオンか離れていた、とあります。このスタディオンというのは、長さの単位で、1スタディオンが約185メートルということです。しかし、何スタディオンか離れている、というのは、はっきりと数字で分かる書き方ではありません。マルコによる福音書の同じ記事では、「舟は湖の真ん中に出ていた」(マルコ6章47節)とあります。この方が、どういう様子であったか、目に浮かびます。逆風で大波であったけれども、もう陸地までは、戻れそうもない、後戻りはできない、そういうところまで来ていたのです。それはどんなに恐怖であったでしょうか。「イエスさま、私たちは、今、大変な状況です。どうしたらよいのでしょう?」と彼らは祈っていたのでしょうか。舟には、イエスさまは、おられません。弟子たちは、どんなに心細いことだったでしょうか。
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
夜が明けるころ、イエスさまが湖の上を歩いて、舟にいる弟子たちのところに行かれた、とあります。私は、イエスさまが、湖の上を歩いてまでして、逆風で恐れ、悩む弟子たちのところに行かれた、ということに心打たれます。イエスさまは、どんなに弟子たちのことを心配しておられたのだろうか、と思うのです。ところが、弟子たちの反応はこういうものでした。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
イエスさまが湖の上を歩いた、とあることに引っ掛かりをおぼえる方があるかもしれません。イエスさまは、湖の上を歩いていたのではなくて、湖畔を歩いていたのではないか。湖のほとりを歩いていたのではないか。弟子たちの中には、荒れる波の中で、勘違いしてしまい、湖の上を歩いているように見えたのではないか、と言われる方があります。そういう解釈もあるでしょうが、ここに書かれているように、弟子たちは、この時、そこにおられるのが、イエスさまであると、認めることができなかったのです。「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり、叫び声をあげた、というのです。この驚き方を知ると、やはり、何か信じられないことがあったのではないでしょうか?
14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
「イエスはすぐ彼らに話しかけられた」とあります。ここにも、「すぐ」という言葉が出てきます。イエスさまは、恐れおののく弟子たちにすぐに話しかけられたのです。ご自分がそこにいることを信じられない。イエスさまだと認めることができない。その弟子たちに、こう言われたのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。ここでイエスさまは、「安心しなさい」と言われました。口語訳聖書では、この言葉は「しっかりするのだ」となっていました。新共同訳聖書では、「安心しなさい」。私は、とても良い言葉だと思いました。安心、心安らぐ、とか、不安を感じなくなるという意味でしょうか。イエスさまが、私と一緒にいてくださる。そのことを知ったら、私たちは、安心するのです。イエスさまは、私たちを愛しておられ、守っておられる。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。このイエスさまの言葉を私たちは、いつもおぼえていたいと思うのです。私たちの人生にはいろいろなことが起こってくる。でも、イエスさまは、私たちに言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
ペトロとイエスさまのやり取りはとてもユニークな内容です。ペトロは、湖の上におられるイエスさまに、このようなお願いをしています。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。そこにおられるのが、本当にイエスさまなのか確認したかったのでしょうか。確認しないで、そのまま信じればいいのに、と思われる方があるかもしれませんが、私は、この場面で、ペトロは、イエスさまのお顔を見て、すっかり安心して、今すぐにでも、イエスさまのもとに行きたかったのかな?とも考えるのです。イエスさまは、「来なさい」と言われました。イエスさまの言葉を聞いて、安心して、ペトロは、舟を降りて水の上を歩きます。イエスさまの方に向かって進みます。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
「強い風に気がついて怖くなり」とあります。風に気がついた。日本語として、正しく訳すなら、こういう言葉になると思いますが、ここは、「風を見た」ということが書いてあるのです。風を見た、といっても、私たちは、風を見ることはできません。ここで言われていることは、イエスさまを見て歩んだら、水の上を歩くことができた。けれども、風を見て歩んだら、沈んでしまった、ということです。
私たちの人生の歩み、どう歩んだらいいのでしょうか。このペトロのように、イエスさまを見つめて歩んだらいいのです。でも、ペトロのように、イエスさまから目をそらして、風を見たら沈んでしまうのです。私たちも、イエスさまを見つめることをしないで、イエスさまを見ないで、別なものを見て歩むなら、沈んでしまうのです。私たちも沈んでしまうことが度々ありますが、その時には、このペトロのように、「主よ、助けてください」と主に助けを求める、主の方に心の目を向けていくのです。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
沈みかかったペトロでしたが、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ」とあります。イエスさまはすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえてくださいました。私たちも主に助けを求めるなら、主はすぐに手を伸ばして私たちを捕まえてくださるのです。
(むすび)
14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
この聖書個所に出てきた舟というのは、教会のことや人生のこと、家族のこと、いろいろなことでも考えられると思います。私たちは、ある時は、イエスさまはこの舟にはいない!と思ってしまうことがあります。またある時は、イエスさまが舟に乗っておられるのに、気づかないこともあります。でも、イエスさまは、私たちの教会、私たちの人生、私たちの家族、そこに一緒におられるのです。そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語っておられるのです。もしもイエスさまを見失っているなら、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とも語ってくださるのです。このイエスさまの言葉を聴きながら、心の目をイエスさまの方に向き直して、人生の歩みを歩んでいきましょう。最後に、34節をお読みします。
14:34 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。
イエスさまと弟子たちは、向こう岸の新しい宣教の地に着きました。私たちも、イエスさまと一緒に向こう岸へ行きましょう。そして、イエスさまの救いの恵みをお伝えしていきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまに強いられて舟に乗り込んだ弟子たちは逆風に悩まされ、恐れおののきました。しかし、イエスさまは、その弟子たちのことを心配され、湖の上を歩いて、彼らのもとに来られました。主は、私たちのことも心配してくださる、気にかけてくださるお方です。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。いつどんな時も、主は私たちにこのように語っておられます。この新しい週も、主が私たちと一緒におられることをおぼえて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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