わたしもあなたがたを遣わす 2024年11月24日
聖書―ヨハネによる福音書20章19~23節
(はじめに)
毎年11月の最後の日曜日は、世界バプテスト祈祷週間の始まりの日になります。私たち赤塚バプテスト教会は、その始まりの日曜日を「世界バプテスト祈祷週間特別礼拝」として行ってきました。今年もその日を迎えて、世界各地、日本各地で主のためにお働きをしている方々のことをプロジェクターでその様子を見、また報告を聴きました。インドネシアの野口日宇満宣教師、野口佳奈宣教師、ルワンダの佐々木和之国際ミッションボランティアの働き、国内の協力伝道の働きについて、それぞれお配りしました「祈りのカレンダー」にも掲載していますのでお祈りください。主の福音が宣べ伝えられ、主の愛と平和が行われますように祈り、ささげていきましょう。
(聖書から)
主の働きに励んでおられる方々のことを別な言葉で言い表すならば、「主によって遣わされた人たち」と言うことができます。今日お読みした聖書個所には、「遣わされる」という言葉が出てきます。ヨハネによる福音書20章21節の言葉です。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。これは、イエスさまがご自分の弟子たちに言われた言葉です。
この聖書個所には、イエスさまが十字架におかかりになり、死なれた直後のことが書かれています。お読みした聖書個所の少し前のところには、復活されたイエスさまが、マグダラのマリアに現れたことが書かれています。イエスさまは、ご自分の弟子たちと福音宣教に励んでおられた時から既にご自分が復活されることを語っておられましたが、弟子たちは、それが現実に起こるとは考えてもいなかったようです。マグダラのマリアも、その話を聞いていたのか、聞いていなかったのか分かりませんが、復活されたイエスさまに出会っても、イエスさまだとは、信じられず、園丁だと思っていた(15節)と書かれています。そのマリアが、そこにおられるのがイエスさまだと分かったのはどうしてかというと、イエスさまが、マリアの名前を呼ばれたからでした。
名前を呼ぶ。このことはとても大切なことです。イエスさまという方は、私たちのことも、同じように、その名前を呼ばれ、私たちと出会ってくださる方です。名前を呼ぶとは、その人を知っているということです。イエスさまは、私たち一人一人に向かって、私は、あなたを知っている、私は、あなたと共にいる、と言われるのです。そして、主に出会った人は、その喜びから、主を伝える者となるのです。マグダラのマリアは、主に出会い、喜び勇んで、弟子たちに、主が復活されたことを伝えました。
一方、イエスさまの弟子の中でも、中心的な立場にいた人たち、十二弟子と言われる人たちの様子が、今日お読みした聖書個所に出ていました。ヨハネによる福音書20章19節の前半の言葉をお読みします。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
先ほどお話したように、マグダラのマリアは、弟子たちに、主の復活を伝えたはずです。マリアは、「わたしは主を見ました」(18節)とはっきりと伝えたはずです。その喜びの報告を聞いたはずの弟子たちですが、ここに書かれていることは、まるでイエスさまが復活されたことはまったく知らないような、聞いたこともないような様子に思えます。どうしてなのでしょう?この18節と19節の間のことについては、別の福音書、マルコによる福音書にこのように書かれています。「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(マルコ16章10、11節)。
マルコによる福音書にも、ヨハネによる福音書と同じく、復活されたイエスさまのことをマリアが伝えていることが分かります。けれども、このようにも書いてありました。「しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」。ここで「彼ら」というのは、イエスさまの弟子たちのことです。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが生きておられること、復活されたことを聞いても、信じなかったというのです。
聞いても信じなかった。その弟子たちの様子が、今日の聖書個所にあるように、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」ということなのです。イエスさまは復活された!イエスさまは生きておられる!せっかくマリアが伝えてくれたのに、聞いても信じなかった。そして、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけてしまったというのです。
自分たちのいる家の戸に鍵をかけた。これは、彼らの心の戸に鍵をかけた、ということをも意味しているのではないでしょうか。ユダヤ人を恐れて、というのは、自分たちを迫害する人たちを恐れた、ということでしょう。しかし、それだけではないのです。聞いても信じなかった。イエスさまが復活された、イエスさまは生きておられる。その喜びの声、福音に対しても、彼らは、心を閉ざしてしまったのです。
イエスさまに対して、心を閉ざしてしまう。これは、イエスさまを信じている私たちにも、時に起こってくることではないでしょうか。恐れが私たちの心を支配してしまう時、私たちは、イエスさまのことが見えなくなる、分からなくなるのです。
今月の初めに、私たちの教会で、北地区牧師会主催の信仰セミナーが行われました。講師の先生は、神奈川地方連合の少年少女の担当をされている先生でした。私は、その講師の先生のお話を聞いて、今日の聖書に出てきた弟子たちのように、恐れに支配されて、自分が主を見失っていたのではないかということに気づかされました。日本の伝道は難しい。いかに伝道が難しいか、いろいろな分析や調査をします。しかし、そこで留まってしまう。こういう理由なのだから、こういう事情なのだから伝道は難しいし、無理なのだ。しかし、大事なことは、生きておられるイエスさま、私たちと共におられるイエスさまを信頼して励むこと。そのような励ましを受けました。
20:19そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
戸は鍵がかかっているはずです。それなのに、そこにイエスさまが入って来られたのです。イエスさまは弟子たちの真ん中に立たれました。そして言われたのは、「あなたがたに平和があるように」ということでした。これは夕方のことですから、イエスさまは、弟子たちに「今晩は!」と挨拶されているのです。しかも、ご自分が十字架にかかって受けた傷口を彼らにお見せになった。恐れによって心を閉ざしていた弟子たちに、イエスさま自ら、会いに来てくださった。そして、十字架にかかった時の傷口を見せてくださった。ああ、これは、この私のためだったのだ!主が会いに来てくださったこと、主の十字架の傷、それが弟子たちの心を開かせたのです。主は、私たちを愛しておられる。こんなにまでして愛しておられる・・・。弟子たちは本当に嬉しかったと思います。ここにはこう書いてあります。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。
私たちも、恐れのあまり、現実の厳しさのあまり、主に対して、心を閉ざしてしまう、主を見失ってしまうことがあると思います。けれども、そういう私たちのところに、主は会いに来てくださる。私たちの真ん中に立って、声をかけてくださる。そして、そういう弟子たちに、私たちに、主はこう言われるのです。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
イエスさまは、神さまの救いのご計画によって、この世に、遣わされました。私たちはまもなくアドベント、そして、クリスマスを迎えますが、それは、神さまが、ご自分の大切なみ子であるイエスさまをこの世に、私たちのもとに遣わされたことを喜び祝う時です。そのイエスさまは、ご自分の弟子たちに、あなたがたを遣わす、と言われたのです。イエスさまは、私たちのことも同じように言われているのではないでしょうか。「わたしもあなたがたを遣わす」。私たちは、イエスさまによって遣わされた者であることをおぼえたいと思います。
イエスさまは、あなたがたを遣わす、と言われましたが、それに続いてこのようなことも言われました。
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
イエスさまがまず言われたことは、「聖霊を受けなさい」ということでした。聖霊を受けなさい、それは、私たちに託された福音を宣べ伝えるという働きは、聖霊によるものなのだ、聖霊の力、働きによって行われるものなのだ、ということが言われているのではないでしょうか。私たちは、一人の人がイエスさまを信じるように、イエスさまに心を開くように、とあの手この手を考えるかもしれません。それも大事なことでしょう。しかし、一人の人がイエスさまを信じるというのは、イエスさまに心を開くのは、聖霊の働きによることです。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない」(一コリント12章3節)と書かれている通りです。
イエスさまが次に言われたこと。それは、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」ということです。ここでイエスさまは、私たち人間のお互いの罪の問題について言われているようですが、こう言われていることに注意したいと思います。「あなたがたが赦せば」、「あなたがたが赦さなければ」。ここで「あなたがた」というのは、主の弟子たちのことです。つまり、ここで言われているのは、罪の赦しについて、まず、あなたがたが赦すか、赦さないか、そこにかかっているというのです。
私たちは、お互いの罪の問題について、それをどのように克服するでしょうか、解決するでしょうか。向こうが謝ってきたら赦してやろう。でも、そうでなければ・・・、というように、相手の出方次第というものでしょうか。けれども、イエスさまは、「あなたがたが」と言われているのです。それは私たちが、赦しのキャスティングボートを握っているということです。そして、その前提にあるのは、私たちが神さまに赦されている者であるということです。神さまに赦されているあなたがたはどうするのか?どう生きるのか?主はこのように私たちにお尋ねになっているのではないでしょうか。
(むすび)
先ほどの報告にありました佐々木和之さんのルワンダでの活動、それは、ルワンダで起こった大虐殺に端を発しています。佐々木さんご夫妻は、長年、この地で、被害者と加害者の和解の働きに取り組んで来られました。神さまの赦しをいただいているお互いが、赦し、赦されて生きるように。この和解の働きが前進していくように祈っていきたいと思います。また、世界中で、日本中で戦争や戦争状態が続いている国々があります。本当に和解の福音が必要であることを思わされます。私たちも、自分自身がこの和解の福音に生きているのだろうか、と自問自答しながら、悔い改めつつ、主の平和を求めていきたいと思います。最後に、佐々木さんの活動のホームページに掲げられている聖書の言葉を読んで終わります。「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました」(エフェソ2章14、15節・聖書協会共同訳)。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちは、世界バプテスト祈祷週間をおぼえて、礼拝を行っています。
主は、私たちを福音のための使者としてお遣わしくださいました。しかし、私たちは小さく、愛の乏しい者です。そういう私たちにも主は、「聖霊を受けよ」と言われます。私たちは聖霊によって、イエスさまと共に福音を宣べ伝えていきますから、どうぞ、導いてください。
戦争、紛争、分断という言葉が世界中から聞かれます。しかし、主は、和解の福音を携えて歩むように、と言われます。主の平和が実現しますように、主の愛がいたるところで表されますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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