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【礼拝説教】2022年2月27日「神の国は言葉ではなく力」

2022年2月27日(日) (朝・夕)赤塚教会礼拝説教「神の国は言葉ではなく力」コリントの信徒への手紙一4章14~21節

聖書―コリントの信徒への手紙一4章14~21節
(はじめに)
 私は神さまのみ心によって召されてキリストの使徒、キリストに遣わされた者とされた。パウロは自分のことをそのように考えていました(1章1節)。そして、自分だけでなく、お読みしましたコリントの信徒への手紙、この手紙を書き送った人たちのことも、あなたがたは神さまによってキリストの使徒、キリストに遣わされた者とされた者、そのように考えていました。それでパウロはキリストの使徒とはどのような者であるのかを語っていったのでした。
 私たちはどうでしょうか?ここにおいでになっている皆さんはどうでしょうか?自分はキリストを信じている。でも、キリストの使徒ではない。私はふさわしい者ではない・・・。そのように思われるでしょうか。私はこの聖書の言葉を読みながら、私もキリストの使徒としてふさわしいとは思えない者ですが、そういう私を主は使徒としてくださっている。そのように信じています。そして、赤塚教会に連なる皆さんのことも主は使徒としてくださっている。そのように信じています。

(聖書から)
 さて、お読みしました聖書の箇所はコリントの信徒への手紙一4章14節からです。先週の続きになります。この箇所で、パウロはコリントの教会の人たちに厳しい言葉を投げかけていますが、それについて、先週お読みしました聖書の中に「兄弟たち、あなたがたのためを思い」(6節)とありましたが、コリントの教会の人たちのことを思って言っているのだ、というのです。そして、さらに14節では、このようなことを書いています。
4:14 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。
 「あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すため」というのです。パウロの気持ちが伝わってきます。キリストの使徒として歩んでほしい、という気持ちです。パウロはコリントの教会の人たちを自分にとってどういう存在であるか語っています。「愛する自分の子供」。パウロにとって、コリントの教会の人たちは、愛する自分の子供だというのです。このことをもっと強い言葉で15節でも語っています。
4:15 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。
 ここに「養育係」ということが出ていますが、おそらく、パウロは、自分は養育係ではなく、父親であると言っているのだと思います。私は、あなたがたをただキリストに導くという仕事をしているだけではない。あなたがたを自分の子供のつもりで、愛し、養い、育てているのだ、というのです。さらに「福音を通し、キリスト・イエスにおいて」とありますように、ここでパウロが言っているのは、信仰による親子関係、霊的な意味での親子関係であることが分かります。
 信仰による親子、霊的な親子ということをお話ししましたが、カトリック教会では、男性なら代父、女性なら代母といって、新しく信仰をお持ちになった人のバプテスマ(洗礼)の時の立会人や信仰生活の導きをする人がいます。この役割はとても大事なことです。プロテスタント教会では、牧師や執事、また教会学校教師といった人たちがそういう役割をしているかもしれませんが、新しく信仰をお持ちになった方の信仰が養われるように、霊的な成長ができるように、そういう働きを教会員同士で行うこと、私たちバプテストでは相互牧会ということになると思いますが、これは大事なことだと思います。
 続いて、パウロはこのように語ります。
4:16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。
 「わたしに倣う者になりなさい」。この言葉を聞くと、パウロは傲慢な人だったのだろうか?自信家だったのだろうか?そんなふうに思われる方があるかもしれません。次の17節には、このような言葉が書かれています。
4:17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
 ここには、パウロが弟子のテモテをコリントの教会に派遣したことが言われています。テモテの派遣はコリントの教会の人たちに「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせる」ためだった、とあります。
 ここまで読んでいきますと、パウロが、コリントの教会の人たちに、私に倣う者になりなさい、と言ったことの内容が分かります。パウロの何に倣うように、というのかというと、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」です。パウロの生き方、それはキリストに従う、どこまでも従う。そういう生き方であったと思います。私はパウロの生き方について、その書いた手紙などから教えられ、それは本当に素晴らしい生き方だと思いますが、もし私が、パウロから、私に倣いなさい、私の生き方に倣いなさい、と言われたなら、パウロ先生、それは私には無理です、と言ってしまいそうです。
 ところで、この「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」ということですが、口語訳聖書では「キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかた」となっていました。他の翻訳聖書を見てみますと、「キリスト〔・イエス〕において私の〔歩んでいる〕道」(岩波訳)、「キリスト・イエスにおける私の道」(田川訳)とありました。「私の道」とあります。「私の生き方」というと、果たして、そんな生き方ができるのだろうか?と私は萎縮してしまいそうですが、道というと、イエスさまが私たちに用意してくださっている道がある。その道を歩めばよい。イエスさまご自身が道であり(ヨハネ14章6節)、イエスさまがその道を共に歩んでくださる。そう考えると、ああ、これなら、大丈夫だ、と私には思えるのです。
 私に倣う者になりなさい。私はイエスさまが用意してくださった道をイエスさまと共に歩んできた。そのことに倣いなさい。パウロが語っているのは、そういうことではないでしょうか。

(むすび)
4:20 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。
 この言葉に触れて、今日の説教を終わりたいと思います。「神の国は言葉ではなく力にある」。19節には「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」とありました。この言葉を読んで、私は、口先ではなく、実践。言うだけでなく、実際に主に従っているかどうか、そのことが大事だ。そういう意味だと思っていました。けれども、改めて、「神の国は言葉ではなく力にある」、この言葉を読んでいくと、どうもそうではないようです。
 神の国。この言葉について、ある牧師先生は、神の王国と訳した方が良いと言っています。神の王国、その王さまはもちろん神さまです。この神さまの言葉、神さまの力によって、この王国の住民は生かされている。神の王国の住民とは誰でしょうか?私たちのことです。私たちは神さまの言葉、神さまの力によって生かされている。「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」、「神の国は言葉ではなく力にある」というのは、あなたがたは王さまではない。神さまだけが私たちの王さまだ。人間の言葉や力ではなく、神さまの言葉と力に生かされている私たちなのだ。そのことに倣いなさい、その生き方を知ってほしい。それがパウロのメッセージではないでしょうか。私たちも神さまの言葉と力に生かされて歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 私たちは神さまの国の住民です。神さまの言葉、神さまの力によって生かされている一人一人です。
 使徒パウロはその恵みを思い起こすように、コリントの教会の人たちに語り続けました。私たちもこのことを忘れないように、お互いが神さまの国の住民、神さまの恵みに生かされている者であることを分かち合い、喜び歩む者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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