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目を留めてくださる神さま ルカによる福音書1章46〜56節 2024/12/08

目を留めてくださる神さま ルカによる福音書1章46〜56節 2024/12/08 赤塚バプテスト教会礼拝説教

聖書―ルカによる福音書1章46~56節
(はじめに)
 アドベント(待降節)の第二週の日曜日を迎えました。お読みした聖書個所は、ルカによる福音書1章46節からのみ言葉です。教会学校では、このところ、マタイによる福音書から、マリアが聖霊によって身ごもった、ということが書かれている聖書個所を学んでいます(マタイ1章18~25節参照)。夫となるヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもったことを主の天使から聞いたという話です。一方、ルカによる福音書では、マリア自身が、そのことを主の天使から聞き、このように答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。「お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。主の天使が告げたマリアが聖霊によって身ごもるということは、神さまの言葉によるものであり、私はその言葉に従います、受け入れます、というマリアの信仰がここに言い表されています。

(聖書から)
 さて、マリアは、この話を聞いて、どうしたかというと、親類のエリサベトのもとに行き、そのことを伝えました。すると、エリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)と言いました。エリサベトは、マリアが神さまの言葉を信じたことをこのように言っているのです。
 マリアとエリサベト、二人は親類関係であったということです。しかし、それだけの関係ではなかったことを知らされます。二人は、信仰の友であったのです。信仰の友、それは、互いに、神さまの恵みを語り合い、悩みを打ち明け合い、祈り合う関係です。ここにおられる皆さんも信仰の友との関係によって、励ましを受け、慰めを受け、ということがあるのではないでしょうか。
 マリアは、エリサベトから、信仰による励ましを受けて、神さまへの賛美をささげた。それが、今日お読みした聖書個所、マリアの賛歌であったと私は思うのです。マリアの賛歌は、マグニフィカ―トと呼ばれます。マグニフィカ―トとは、ラテン語で「あがめる」という意味です。この賛歌の初めの言葉、「わたしの魂は主をあがめ」、ここからそのように呼ばれるようになりました。
1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 「わたしの魂は主をあがめ」。ここで「魂」というのは、その人の全存在、全人格と言ってよいでしょう。私は、私のすべてにおいて、主をあがめます、と言っているのです。また、この「あがめる」という言葉ですが、これは「大きくする」という意味です。私は、私の全存在、全人格において、神さまを大きくします、ということです。
 私たちが、神さまを大きくしたり、小さくしたりするというのは、何かおかしな話に思えるかもしれません。もちろん、神さまは、私たちの思いをはるかに超えた方であり、私たちが、神さまのことを大きくしたり、小さくしたりすることはできません。けれども、私たちは、自分の人生において、自分の生活において、神さまをある時は大きくしたり、またある時は小さくしたりしてしまう。神さまを中心に置くことがあるかと思えば、神さまを隅っこに追いやってしまうこともあるのではないでしょうか。
 マリアは、「わたしの魂は主をあがめ」と言いました。神さまは、私の人生において、私の生活において、中心におられる方です。私にとって、神さまが何よりも第一なのです、と言っているのです。「あがめる」というと、礼拝する、ということでもあります。私たちは、今ここで、神さまを礼拝していますが、それは、私の人生の中心は、私の生活の中心は、神さまです、神さまを第一としています、という信仰を言い表しているのです。
 47節の後半では、マリアは、「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言っています。私は、救い主である神さまを喜びたたえます。それは、私は神さまを喜びます、神さまを喜びとします、と言っているのです。神さまを喜ぶ、神さまを喜びとする。私は、旧約聖書・ネヘミヤ記の言葉から、神さまを喜ぶということを教えられました。そこにはこのような言葉があります。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8章10節)。神さまを喜ぶことが、私たちの力だ、というのです。
 皆さんが「喜ぶ」ということで、聖書から教えられた、と言える言葉は何でしょうか?テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節の言葉はよく知られています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
 「いつも喜んでいなさい」。そんなことができるはずがない、と言われる方があるかもしれません。喜べないことばかり、不安、心配ばかりの毎日です。そんなのんきなことは考えられません、と言われるかもしれません。私も、自分で、この言葉を実行してみようとしても、いつも喜ぶなんて、なかなかできない、と思ったことがありました。ある方は、この聖書の言葉について、このように言われました。「いつも喜んでいなさい」というのは、主にあって、いつも喜んでいなさい、ということだ、と言うのです。主が、神さまがどんな時も、私たちと共におられる。そのことを喜びなさい、ということだ、と言うのです。
 この後に続く、「絶えず祈りなさい」、「どんなことにも感謝しなさい」。これらのことについても、主にあって、絶えず祈りなさい。主にあって、どんなことにも感謝しなさい、ということだ、と言うのです。皆さんは、いかがでしょうか。主にあって。主が私たちと共におられる。このことをおぼえる時、私たちは、喜び、祈り、感謝へと導かれていくのではないでしょうか。
 続いて、48~50節をお読みします。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
 マリアは、神さまがこの私に目を留めてくださった、と言っています。目を留めるというと、私たちは、どういう人に目を留めるでしょうか。今年、大活躍をした大谷選手のことは、日本中の人たちが目を留めたことでしょう。そのように、活躍した人、成功した人、そういう人のことは目を留めます。しかし、このマリアの賛歌では、このようなことが言われています。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」。
 マリアは、自分のことを「身分の低い、この主のはしため」と言っています。神さまは、そういう私のことも目を留めてくださった、と言っています。神さまに目を留められる人とはどういう人でしょうか。このマリアの賛歌から知らされることは、誰でも、どんな人でも、神さまに目を留めていただけるということです。いやいや私はそうじゃないだろう?マリアは特別な人だから神さまに目を留めていただいたのだろう。そう思われる方があるかもしれませんが、私は、神さまは、マリアのことだけでなく、私たちのことも目を留めておられると思います。なぜなら、次にお読みするマリアの言葉にはこのようなことが言われているからです。
 「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから」。ここに「幸いな者」とあります。「力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから」とマリアは言いました。神さまがこの私に「偉大なこと」をなさった。それはマリアが聖霊によって救い主を身ごもった、ということです。別な言い方をするなら、神さまはマリアに救い主であるイエスさまを与えてくださった、ということです。イエスさまを与えてくださった。このことのゆえに、マリアは、神さまは、この私に目を留めてくださった、私を幸いな者としてくださった、と言うのです。けれども、イエスさまを与えてくださった、ということ、それは、マリアだけのことでしょうか。いいえ、神さまは、私たちにもイエスさまを与えてくださったのではないでしょうか。そうであるならば、私たちも神さまに目を留められた者、幸いな者なのです。
「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます」。「主を畏れる者」とありました。ここで使われている「畏れ」とは、恐怖の恐れではありません。畏怖とか畏敬という時に使われる畏れです。私たちが、神さまを畏れるというのは、神さまから裁かれるのではないか、と恐れることではありません。神さまは私たちをお造りになったお方です。私たちを愛し、私たちを生かしておられるお方です。そのお方を感謝し、喜ぶこと、それが、神さまを畏れるということです。
「主を畏れる者」。その反対のことが、51節に書かれています。「思い上がる者」です。口語訳聖書では、「心の思いのおごり高ぶる者」となっていました。私たちが神さまに出会い、神さまという方がどんなお方であるか知ると、私たちは神さまを畏れるようになります。マリアの賛歌の最初にありましたように、「わたしの魂は主をあがめ」。神さまをあがめる。神さまが私たちの心の中心に、人生の中心になっていきます。
しかし、私たちが神さまを無視したり、離れたりすると、私たちは、神さまの愛を忘れてしまうのです。神さまに対する感謝、喜びが無くなり、その結果、私たちの心は思い上がってしまう、おごり高ぶってしまうのです。放蕩息子の譬え話(15章11~32節)は、皆さんよくご存じだと思います。父親から離れ、放蕩三昧の生活をした息子が父親のもとに立ち返るという話です。この話は、神さまと私たち人間の関係を示している話ですが、息子が父親のもとに立ち返る時、息子は「我に返った」(15章17節)と書いてあります。神さまから離れている時というのは、本当の自分を見失っている状態なのです。本当の自分とは、神さまに愛されている自分であり、互いに愛し合って生きる自分です。ところが、神さまの愛を忘れ、自分を見失ってしまう。神さまは、そういう私たちのために、私たちが神さまのもとに立ち返ることができるように、ご自分のみ子であるイエス・キリストをお送りくださったのです。

(むすび)
 マリアの賛歌。それは、マリアが神さまから与えられた恵みである救い主が与えられたことを喜び歌う賛美歌です。マリアは、神さまの言葉の通り、聖霊によって身ごもり、救い主が誕生しました。この方は、私たちすべての者の救い主です。この方を私たちはみんなにお知らせしていきましょう。そして、救い主が与えられたことをみんなで喜び祝いましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 あなたは私たちのために、ご自分の大切なみ子であるイエス・キリストをお送りくださいましたことを感謝します。イエスさまの誕生は、聖霊による出来事、神さまのみわざであったことが聖書に示されていました。マリアは救い主が与えられたことを、神さまが自分に目を留めてくださったこと、幸いな者としてくださったことであると信じ、心から神さまへの賛美をささげました。私たちもこのマリアの賛歌を私たちの賛歌として、神さまへの賛美をささげる者でありますように。そして、救い主があなたのために与えられました、と喜びをもって、このことを人々にお知らせしていくことができますように導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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