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【礼拝説教】2022年9月11日「心の中まで主に従う」

2022年9月11日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「心の中まで主に従う」マタイによる福音書5章27~32節

聖書―マタイによる福音書5章27~32節
(はじめに)
 イエスさまは律法の完成者(17節)です。神さまは私たち人間が互いに愛し合い、赦し合い、生きていくことができるように律法を与えてくださいました。その律法が二つの言葉で要約されています。イエスさまが律法の専門家と対話された時、イエスさまはその人にこう言われました。
 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(22章37~40節)。
 これはイエスさまが聖書の言葉から引用され、お示しになった言葉です。律法はこの二つの掟に基づいているというのです。神さまを愛すること(申命記6章5節)、隣人を愛すること(レビ記19章18節)。ところが、愛すること、このことが忘れられていくとき、このことから離れていくとき、律法は互いを愛し合うどころか、裁き合うものとなっていきます。
 イエスさまが律法の完成者というのは、そのことを人々にお示しになるためだった、ということができるでしょう。私たちが神さまを愛するため、隣人を愛する。つまり、互いに愛し合うための教えを私たちはこの聖書から聴いていきたいと思うのです。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書の箇所では、二つの律法の教えについて、イエスさまが語られた言葉をお読みしました。姦淫してはならない、離縁してはならない、という律法です。
 まず、姦淫してはならない、という律法について、イエスさまが語られている箇所から見ていきましょう。
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 姦淫してはならない。それは結婚を、夫婦関係を軽んじ、壊してしまうことです。ここでイエスさまは「心の中で」ということを語っておられますが、心の中の姦淫というものもあるのだ、と言われているのです。その一つの例として、「みだらな思いで他人の妻を見る者」、それは心の中で姦淫しているのだ、というのです。
 ところで、「みだらな思い」とは、何でしょうか?別の訳を見てみますと、聖書学者の田川建三という人の訳では「欲するために女を見る者」とあります。「欲する」です。あの人を自分のものにしたいと欲する。この言葉から考えられるのは、自分のものにする、ということです。つまり、姦淫というのは、相手をもののように扱うということです。「あの人は私のものだ」。相手の夫や妻を奪って、夫婦関係を破壊してしまうこと、また夫婦の関係においても、相手をもののように扱う、考えるならば、それは「みだらな思い」、罪なのです。夫婦関係を尊重する。また相手を一人の人格として大切にする、尊重する。それが、聖書が教える結婚です。
 この後には驚くような厳しいというか、恐ろしい言葉が続いています。
5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
 ここに書かれている言葉をそのまま読んで、理解していきますと、右の目で姦淫するならば、その罪深い目をえぐり出して捨ててしまいなさい、ということになります。右の手で姦淫するならば、その罪深い手を切り取って捨ててしまいなさい、ということになります。そうすることによって、あなたは地獄に落ちることはないでしょう。これは大変恐ろしい話です。
 しかし、ここでイエスさまが言われたことはそういうことではありません。イエスさまはここで比喩的な表現を用いて語られたのです。それではイエスさまが本当におっしゃりたかったことは何でしょうか?先ほど、「みだらな思い」とは何か?ということでお話ししました。それは相手をもののように扱う、考えることだと言いました。しかし、今日の言葉から知らされるのは、お互いを尊重するように、大切にするように願っておられるということです。
 けれども、あなたの右目が姦淫するならば、つまり、相手に対して罪を犯すならば、その目をえぐり出して捨ててしまいなさい。あなたの右手が姦淫するならば、つまり、相手に対して罪を犯すならば、その手を切り取ってしまいなさい。それほどまでにして、相手のことを尊重するように、大切にするように、とイエスさまは言われたのです。
 続いて、離縁してはならない、という律法の教えについて、イエスさまが語られている箇所をお読みします。
5:31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。5:32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
 この「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という律法の教えは、本来は、離縁された妻の立場を保護するためのものでした。妻だった女性が離縁した後も、夫だった男性から、自分は夫であると主張してくるようなことがあったそうです。それで離縁状を渡すように、と律法で定められたのですが、この律法が誤った用いられ方をするようになりました。例えば、夫は妻のことが気に入らなくなれば、離縁状を渡せば、妻と離縁することができる。そういう考えから、妻と離縁する人たちがいたそうです。イエスさまは律法の取り扱いを間違えている、悪用している人たちに向けて、結婚を軽んじてはならないこと、夫婦として生きることを大切にするように、と語られました。
 私はこの聖書の言葉を読みながら、結婚式の時に読まれる結婚の誓約の言葉を思い出しました。その誓約の言葉は新郎と新婦、どちらもまったく同じ言葉です。その言葉を読んでみます。

 〇〇、あなたはこの姉妹(兄弟)と結婚して、夫婦となろうとしています。あなたは、このことが神の御旨によるものと信じますか。あなたは今からのち、幸いな時も災いの時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、互いに愛し、互いに助け合って、生涯を送ることを約束しますか。
(『日本基督教団 式文 (試用版)』)

 教会での結婚式の時に、司式者である牧師が新郎と新婦に対して、この言葉で尋ねます。そして、新郎と新婦が、「はい、約束します」と答えます。「幸いな時も災いの時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、互いに愛し、互いに助け合って、生涯を送る」。これが、神さまが夫婦に求められていること、家族に求められていることです。そして、教会にも求められていることだと思います。

(むすび)
 今日の聖書の言葉の中に、目と手ということが言われていました。目が罪を犯す。手が罪を犯すのです。目というのは、心の中で罪を犯すということ、手というのは、実際に罪を犯すということが言われているように思います。イエスさまは、目をえぐり出して捨ててしまいなさい。手を切り取って捨ててしまいなさい、と言われましたが、この言葉から、罪に対する厳しさや警戒ということも教えられます。しかしまた、私たちはいつも罪に対して注意して、用心して生きるとなると、大変なことだと思いますが、私たちは自分の力ではそれでも罪を克服することはできません。ではどうしたら罪を克服することができるでしょうか?
私たちを罪から救ってくださったのはイエスさまです。イエスさまの十字架の愛です。ですから、最も大事なことは、私たちの目がイエスさまの愛を見つめていくこと、私たちの手がイエスさまのみ手にすがっていくことです。それは具体的には、主の愛の言葉に耳を傾けていくことであり、主に祈り求めていくことです。主の守り、助けを信じて歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
今日の聖書の言葉からも、私たちは罪に自分の力では打ち勝つことのできない者であることを知らされます。
自分の罪を、弱さを認め、神さまからの愛の語りかけであるみ言葉を聴き、神さまに祈り求める私たちでありますように。
私たちを罪から救い出してくださったイエス・キリストの十字架の愛のわざをいつも心におぼえて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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