ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 救い主の成長 ルカによる福音書2章40~52節 2024/12/29

救い主の成長 ルカによる福音書2章40~52節 2024/12/29

救い主の成長 ルカによる福音書2章40~52節 2024/12/29 赤塚バプテスト教会礼拝説教 石堂雅彦牧師

2024年12月29日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「救い主の成長」
聖書―ルカによる福音書2章40~52節
(はじめに)
 2024年もまもなく過ぎ去ろうとしています。この一年も私たちを守り導いてくださった神さまに感謝したいと思います。そして、新しい年も、主を見上げて歩んでまいりましょう。
 お読みした聖書個所は、ルカによる福音書2章40節からです。先週は、クリスマス礼拝、クリスマス・イヴ礼拝を行い、イエスさまのご降誕をお祝いしましたが、今日の個所では、それから、約十二年の歳月が流れた時のことが書かれていました。新共同訳聖書では、ルカによる福音書2章39節から40節には、「ナザレに帰る」という小見出しが付けられています。

(聖書から)
 ヨセフとマリア、そして、幼子のイエスさまは、ガリラヤの町ナザレに帰りました。その時のイエスさまの様子について、40節にはこのように書かれています。
2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
 幼子のイエスさまは、「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とあります。口語訳聖書では、「神の恵みがその上にあった」となっていました。新共同訳聖書の「神の恵みに包まれていた」という訳もとても良い訳だと思います。私たちの教会では、子どもたちの成長と神さまの祝福を祈る、子ども祝福式という式を行います。もちろん、その式の中では、子どもたちの成長、健康を祈りますが、最も大事なことは、ここに書かれていました「神の恵みに包まれている」、「神の恵みがその上にある」ということです。
 教会で、子どもたちに、神さまの恵みがありますように、と祈ること、それは、どういうことかというと、神さまの恵みがこの私に与えられている、と信じて歩むように、ということです。神さまの恵みが与えられていないという人は誰もいないのです。ただ、神さまの恵みを知らないで生きている、神さまの恵みなど、無かったかのようにして生きているという人は多いのです。しかし、誰もが神さまに造られた者であり、誰もが神さまに愛されている者です。教会は、子どもたちが、この神さまの恵みを、神さまの愛を、幼い時から知ることができるように、祈り、伝えていくのです。
 ルカによる福音書2章41節から、新共同訳聖書では、「神殿での少年イエス」という小見出しが付けられています。ここには、他の福音書にはない、とても貴重な記事が書かれています。それは、イエスさまの少年期、十二歳のイエスさまのことが書かれているのです。41節からお読みします。
2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
 過越祭とありました。過越祭とは、イスラエルの民が、エジプトで奴隷として苦しんでいたのを、神さまはモーセという指導者を立てて、エジプトから脱出した、奴隷状態から解放された。そのことをお祝いする祭りです。イエスさまの両親であるヨセフとマリアは、この過越祭には、毎年、エルサレムへ巡礼の旅をしました。おそらく、イエスさまも両親に連れられて、エルサレムへ旅をしたと思います。ここには、「イエスが十二歳になったときも」とあります。ユダヤにおいては、十二歳というのは、成人の男子となる直前の期間です。そして、十三歳になると律法の知識を身に着けて、成人の男子となるのです。日本で言えば、成人式を迎える直前ということでしょうか。教会で言えば、バプテスマを受ける前の準備段階ということでしょうか。
 さて、この後、43節から読んでいきますと、この家族にひと騒動が起こります。その場面を読んでみます。
2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
 この巡礼の旅というのは、かなりの大人数の旅だったのでしょう。両親は、イエスさまがエルサレムに残っていたことに気づかないで、帰りの道の途中まで歩いて来てしまった、というのです。両親は、イエスさまを捜し回りましたが、見つからず、エルサレムに引き返すことになりました。
 それでは、エルサレムに残っていたイエスさまはどうしておられたのでしょうか?そのことが、46節から書かれています。
2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
 必死で、我が子を捜す両親でした。ようやく三日後に、イエスさまを見つけたことが書いてありました。その時のイエスさまの様子はこのようなものでした。もう一度、46節をお読みします。「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。
 イエスさまは、神殿の境内におられました。そこでは、学者たち、これは、ユダヤの律法の教師たちということです。イエスさまは、この人たちの真ん中に座っておられました。「話を聞いたり質問したりしておられ・・・」とあります。イエスさまは、ユダヤの律法の教師たちから、神さまの律法、聖書の言葉を聴いておられたのです。そして、質問もしておられた。つまり、熱心に、聖書を学んでおられた、ということです。私たちのことで言うなら、礼拝の前に行われている教会学校のような様子を想像できると思います。イエスさまも、私たちと同じようにして、聖書を学んでおられたというのです。
 イエスさまは、「学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられ」た。「真ん中に座り」ということからは、イエスさまは、とても積極的に学んでおられたことが分かります。私は、この聖書の言葉を読んで、イエスさまという方は、学ぶ人であったということを教えられました。私たちも、イエスさまに倣って、イエスさまのように、み言葉を学び続ける者でありたいと思います。
 48節をお読みします。
2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
 両親は、イエスさまの様子を見て、驚いた、ということが書いてありました。47節にも、イエスさまの受け答えを見て、人々が驚いた、ということが書いてありました。どちらも、驚いた、ということですが、その驚きの内容はどうも違うようです。人々が驚いたのは、十二歳の少年がこんなにも、聖書を学び、理解した、という驚きです。両親の驚きについては、母のこの言葉から分かります。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。両親は、イエスさまが神殿の境内で何をしていたのか分かっていなかったようです。
 49節からお読みします。
2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
 イエスさまは、両親に向かって、私は、自分の父の家にいた、と言われました。イエスさまがおられた神殿というのは、神さまを礼拝する場所です。そこは、私の父の家、神さまの家なのだ、と言われたのです。「家」という言葉は、「事柄」とか、「仕事」という言葉にも訳すことができるそうです。すると、イエスさまは、私は、父の事柄、父の仕事、つまり、神さまの事柄、神さまの仕事に携わっていた(聖書協会共同訳・注)と理解することができます。けれども、この話を聞いていた両親について、「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」とあります。最も身近な存在であった両親、家族でしたが、イエスさまの言われたことを理解することはできませんでした。私たちも、イエスさまを信じることは、本当に嬉しいこと、喜びであり、ぜひ、人々に伝えたいと願っているけれども、なかなか伝わらない・・・。そう思うことが度々あると思います。イエスさまも、両親の無理解について、がっかりされるようなことがあったかもしれません。

(むすび)
2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
 イエスさまは、両親と一緒にナザレにお帰りになりました。ナザレに帰った後のことについて、このように書かれていました。「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」。先ほどお読みした聖書個所では、イエスさまが、神殿について、「自分の父の家」、つまり、ご自分の父は神さまであり、その方を礼拝する場所と言われました。このことから、イエスさまは、この時、ご自分のことを神の子、救い主であると自覚されたのだ、と言われます。ところが、身近にいた両親には、イエスさまの言われたことが何のことなのか、分かりませんでした。しかし、イエスさまは、そういう両親に仕えた、というのです。
「母はこれらのことをすべて心に納めていた」とあります。母は、イエスさまの言われたことは、まだ理解していませんでしたが、イエスさまの仕える生き方を、注意深く見ていたのではないでしょうか。あの時、我が子イエスが言ったことは何だったのか・・・。イエスさまの仕える生き方、歩みを見ながら、心の中を思い巡らしていたのではないでしょうか。今は、分からないけれども、理解できないけれども、信じられないけれども、伝わらないけれども、いつの日か、信仰の目が開かれて、分かる時が来る、理解できる時が来る、信じることができる時が来る、伝わる時が来る。私たちは、自分自身のことでも、家族のことでも、友人のことでも、主に祈りながら、その日を待ち望んでいきたいと思うのです。
 52節には、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあり、少年イエスの成長が書かれていますが、今日の説教題を「救い主の成長」としたのは、イエスさまご自身の成長という意味だけではありません。私たちの中におられるイエスさまが成長するように、という意味を込めて、この説教題にしました。マリアは、天使から聖霊によって救い主を宿すという言葉を聴いた時、「わたしの魂は主をあがめ」(ルカ1章47節)ます、と神さまを賛美しました。「あがめる」とは、「大きくする」ということです。主をあがめる。私たちの中におられる主が大きくされるように。私たちはこのことを祈り続けていきたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 あなたは、その大切なみ子を私たちのところにお送りくださいました。先週は、その出来事、クリスマスをみんなでお祝いしました。
 今、救い主は、私たちと共におられます。私たちも、主をあがめます、主が私の中で大きくされますように、と賛美し、祈り、歩む者としてください。
 2024年の歩みを導いてくださって感謝します。新しい年も、主が私たちを導いてください。自分が神さまに愛されていることを知り、救い主を新たにお迎えする方がありますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

アーカイブ

月を選択