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【礼拝説教】2023年2月19日「神の賜物を与えられた私たち」

2023年2月19日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「神の賜物を与えられた私たち」コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章1~11節

聖書―コリントの信徒への手紙一12章1~11節
(はじめに)
賜物ということが、お読みしました聖書箇所に書かれていました。賜物とは何でしょうか?手元にある国語辞典を引いてみました。そこには、「賜ったもの。いただき物」(『岩波国語辞典 第8版』)とありました。私たちには賜物が与えられているのです。誰から与えられたのでしょう?神さまから与えられたのです。その賜物について書かれている聖書から共に聴いていきたいと思います。

(聖書から)
1節には、このように書かれていました。
12:1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
「兄弟たち」とパウロは呼びかけています。これは、パウロがコリントの教会の兄弟たちに呼びかけた、ということですが、聖書協会共同訳では、「きょうだいたち」と訳されています。漢字と平仮名の違いですが、聖書協会共同訳の翻訳方針には、明らかに、男性を指す場合以外は「きょうだい」という表記を用いた、ということです。ですから、ここは、「兄弟たち」となっていますが、実際は、教会の兄弟姉妹へ呼びかけているということです。賜物は、男性だけに与えられているのではなく、男性にも女性にも、教会に連なるみんなに与えられているということです。
また、ここには、「霊的な賜物」とあります。なぜ、「霊的」という言葉があるのでしょう。この後の2節以下を読んでみます。
12:2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
「あなたがたがまだ異教徒だったころ」とあります。これは、あなたがたが真の神さまを信じる前ということです。その頃は、何の抵抗もなく、偶像の神々を拝んでいた、ということです。しかし、今はどうか、というと、イエス・キリストを神さま、救い主と信じています。それは、どうして信じることができたのでしょう。
どうして信じることができたのか。3節を読むと、分かります。「神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない」。ここに、「神の霊によって」、「聖霊によらなければ」とあります。神の霊、聖霊とは、同じことです。この神の霊、聖霊によって、私たちは、イエスは主である、と信仰を告白したのです。イエス・キリストを信じることができるのは、私たちの知恵や力、悟りによるのではありません。聖霊によって、イエス・キリストを信じることができるのです。
私たちが、自分の家族、自分の友人など、イエスさまを信じる信仰に導かれるように、と願うならば、このことをまず祈るのです。聖霊によって、この方が、あの方がイエスさまを救い主と信じますように。このことを祈りながら、イエスさまを伝えていくのです。
そして再び、4節から、賜物の話になります。
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
先ほど、賜物について、霊的な賜物と書かれていることについて、触れましたが、それは、神さまの霊、聖霊によって与えられるものだからです。4節には、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊」とありました。
5節では、「務め」ということが言われています。これは新約聖書の原語であるギリシア語では、「ディアコニア」という言葉です。この言葉の意味は、「奉仕」ということです。奉仕、つまり、仕えるためのものということです。神さまが私たちに与えてくださった賜物は何のために使うのか、というと、奉仕、仕えるためのものということが言われているのです。
そして、6節では、「働き」とあります。これも原語で見てみますと、「エネルゲイア」という言葉です。この言葉を聞くと、何か似たような言葉を思い起こされた方があると思います。エネルギーです。エネルギーの元の言葉です。日本語では、精力とか、元気という意味ですが、神さまの力と言ったらよいでしょう。
私たちは、神さまから賜物をいただきました。それは、仕えるためのものです。そして、神さまの力によるものです。
ところで、賜物というと、よく聞く話が、何か自分に得意なものがあって、それを「これが私の賜物」と考えて、「私はこのことが得意だから、これで神さまのためにお仕えしたい」と言われる方があります。例えば、楽器が得意な方がその楽器で教会の音楽奉仕で用いられるということがあります。すると、自分はこのことはあまり得意ではない。能力もそんなにあるように思えない・・・。そういう場合は、それは賜物ではない、ということになるのでしょうか?
これについては、私自身のことで言いますと、私は弁舌が得意な方ではありません。むしろ、訥弁です。自分ではお話しをする能力があるとは思えません。それでは私には、説教をする賜物はないのでしょうか?私は献身、これは神さまに自分をおささげしていきます、ということですが、その決心をする時、このことで随分悩みました。悩みの中にあった時、私の信仰の先輩がある聖書の言葉を読みなさい、と示してくれました。それが出エジプト記4章10~12節です。
4:10 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」4:11 主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。4:12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
ここには、神さまがモーセを用いられる時のことが書かれています。私はこの言葉を読み、私に口をお与えになったのは、神さまなのだ。その神さまにおまかせしていこう、と私は献身の決心をしました。その後には、エレミヤ書1章6~8節の言葉にも出会いました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ」(エレミヤ1章7節)。この言葉にも励まされました。自分の得手不得手、能力、そのことよりも、神さまの言葉に聴いていくこと、神さまが何と言っておられるか、そのことが大事なことだと受け止めて決心しました。私の今があるのは、神さまの言葉によることだ、と信じています。
7節には、このような言葉が語られています。
12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
ここで注目したいのは、「一人一人に“霊”の働きが現れる」と書かれていることです。一人一人、つまり、私たちを通して、聖霊の働きが現れる、というのです。今は、コロナ禍にあって、礼拝の出席者も少なくなっている。教会の活動も再開されていない。聖霊が働いていないのだろうか・・・。いいえ、そうではないのです。私たちがどんな状況にあっても、どんな状態にあっても、今、ここに聖霊の働きはあるのです。ここに主にある兄弟姉妹が呼び集められ、一緒に礼拝を行っている。ここから、一人一人が世に遣わされていく。それらすべて聖霊の働きです。私はそう信じています。
そして、聖霊が働いておられるのは、「全体の益となるため」というのです。ここで、全体というのは、教会のことです。教会に連なる一人一人のことです。つまり、全体の益というのは、自分のためだけではありません。教会に連なる一人一人のためということです。昨年の秋に召天されました木佐貫明子さんとは、昨年の夏以来、何度も木佐貫さんのご自宅で一緒に祈る機会を持ちました。木佐貫さんは、ご自分のお体が日に日に弱っていくことを嘆いておられました。「『私は体が弱るばかりです。早く天に召してください』。私はそのように祈るのです」とおっしゃっていました。しかし、木佐貫さんの祈りは嘆きに終わりませんでした。このようにも祈られました。「私と同じく、体の弱りをおぼえている方々を神さまがお支えください」。自分のことに留まらず、他者のために祈る姿に私は教えられました。「全体の益となるため」というのは、こういうことだと思います。私たちも教会に連なる兄弟姉妹のために祈るというところから始めていこうではありませんか。

(むすび)
8節以下、様々な賜物のことが言われています。おそらく、コリントの教会の人たちに与えられた賜物が言われているのでしょう。それらの賜物について、「同じ“霊”によって・・・与えられ」という言葉が繰り返されています。「同じ“霊”」、同じ神さまの霊、聖霊によって与えられたものなのだ、と言っているのです。コリントの教会の中には、自分こそは、霊の人だ、自分だけが特別な賜物を受けた者なのだ、と自分を誇り、高ぶる人たちがいたようです。それに対して、パウロはこう言いました。11節をお読みします。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
神さまは、神さまに仕えるため、教会に仕えるため、主にある兄弟姉妹、それぞれに賜物を与えてくださった。そのことをおぼえて、自分のためだけでなく、主のために、主にある兄弟姉妹のために、その賜物をもって励みなさい。そのようにパウロは言ったのです。賜物を与えてくださった神さまの言葉、神さまの心をしっかりと受け止めて歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
あなたは私たちが神さまに仕えるために、教会に仕えるために、賜物を与えてくださいました。
賜物は、私たちの能力、得手不得手によるものではありません。私たちが神さまにお仕えしていきたい、教会にお仕えしていきたい、と祈る時、神さまが私たちに示してくださいます。そして、神さまはご自身の働きのために私たちに賜物を与えて用いてくださいます。与えてくださる主の前にへりくだり、感謝と喜びをもって仕える者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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